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Vol.148 心の持ち方

2013/10/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

今月のテ-マは、心の持ち方次第で私たちの運命が創造されることを意味しているのだと思う。私たちは毎日さまざまな出来事に遭遇し、ほとんど無意識に、心の持ち方によってどうするかを決めている。その連続が人生をつくっているのだから、いかに心の持ち方が大事であるかが分かる。心の持ち方は、その人が持つ人生観・価値観によって決まるのだと思う。たとえば雨が降ってきたら、ある人は「いいおしめりだなあ!」と言って天に感謝するが、一方では「うっとうしい、嫌な雨だなあ!」と天を恨む。雨が降るという事実は一つでも、心の持ち方でその受け止め方が違ってくる。

私はいつのころからか、我が身にまつわるすべての出来事は、必要だから与えられたのだと受け取れるようになっていた。たとえそれがどんなに不条理であっても、また負傷したり、病気であったりしても、その出来事を通じて天が何かを教えてくれているのだと思えるようになった。以来、自分に起きる出来事に無駄なことは何一つない、すべてプラスなのだと、嫌なことも苦痛に思うことも進んで受け入れるようになった。そのためだろうか、傷ついても苦痛は少なくなり、病気の回復も予想外に早くなったのを経験している。

このような物事の受け取り方ができるようになったのは、私の青年時代の出来事に起因している。前にも述べたが、志願して入隊した海軍の一年間の基礎教育と、三年余の戦場の体験である。入隊するや、連日厳しい訓練で心身共に鍛えられ、自由な時間はトイレとハンモックの中だけだったのを覚えている。毎日、定期便のように教官から「気合が入っていない、そんなことで命を的に戦えるか・・・」と、鉄拳の制裁を受けていた。絶対服従の牛馬に等しい不条理な扱いに、私はハンモックに入ると悔し涙を抑えられなかった。が、ふと涙する自分を省みて、少々殴られたぐらいで怯むような自分ではないはずだと思うようになった。

心の持ち方が変わった途端に、不思議にも鉄拳制裁が少しも苦にならなくなった。それどころか、教官は私たちを早く一人前の軍人に仕立ててやろうとの制裁なのだと気が付いて、進んで受け入れる気持ちになった。さらに3年余の戦場の体験が、物事の受け止め方、心の持ち方を強固なものにしてくれた。南方の戦場、ラバウルの戦況が日増しに切迫する中で、私は連日、戦爆連合の銃爆撃に曝されながら、走路を駆け巡って戦ってきた。当時の戦況から、遅かれ早かれ死は確実なものと観念したが、考えることはどんな死に方をするかだけであった。

どうせ死ぬなら「前から撃たれて死のう」と思い立ったその瞬間、もういつでも死ねるぞという、恐れるものが何もない、奮い立つような勇気がわいてきた。心の持ち方が変わることによって、生死一如の大安心の境地を獲得できたのである。ところが、戦線を縮小のため、我がゼロ戦部隊は急きょサイパン島に後退することになり、私は少数の部下と小さな貨物船で行くことになった。既にラバウルは空も海も敵の勢力下にあり、出ていく船がほとんど沈められていた。出航前夜、船が沈めばどうして死ねばいいかを考えると頭が冴えて眠れず、弾に当たっての死をどれほど望んだか知れない。悩みぬいて絶望しそうになった時ふと思い出したのは、少年のころ海底深く潜って失神しそうになったことだった。死に方を見つけた私は泥のように眠ってしまった。

出航の翌日、予想通り敵機から爆弾の洗礼を受け、共に港を出た僚船が目の前で船首を上に沈んでいくのを見た。その翌日、一難去ってまた一難、所在を知った敵潜水艦の好餌(こうじ)となって轟然(ごうぜん)魚雷を受け、私は太平洋の山のような大波の中に放り出された。しかし、いざという時の腹構えができていたので、死ぬのはまだ早いと余裕を持って泳いでいると、いつの間にか現れた味方の駆逐艦に拾われた。生き延びるのでなく、死ぬことしか考えていなかった心の持ち方が、生かされる結果をもたらしたのだと思う。

私はこうした数奇な運命を超えて、現在の心の持ち方が培われてきたのだと思う。私たちの身の回りには次々と予期しない出来事が起こってくる。それは好ましいことばかりではなく、そうでないものも多い。好ましい出来事に逢うと有頂天になり、そうでないものには避けることしか考えない。だが、運命をどう受け取るかによって、私たちの人生を大きく変える要因になるのは間違いない。

たとえ好ましくない出来事に出逢っても、避けたいと思う出来事ほど貴重な教訓を含んでおり、反対に好ましいと思う出来事には、得るよりも失うものが多いことを度々経験している。我が身に起きるすべての出来事には必ず意味が含まれていて、無駄なものは一つもない。必要だから与えられたのだと受け取るならば、人間として大きく成長できるのではないか。運命には、無意味なもの、無価値なものは何一つないと確信している。挫折も失敗も、病気も失恋もプラスにできるし、どんな過酷な環境に直面しても、自分を成長させるタネは必ず見つかると考えている。

運命は、私たちの知恵の及ばない、宇宙の大いなる力が働いていることをまず念頭に置かなければならないが、その受け取り方と対処の仕方によって、人生にプラスにもマイナスにもなる。言い換えると、運命はどのようにでも変えることができるし、自らつくって行けるものだと考えられる。運命を動かすことができないと考えるか、どうにでも変えられると受け取るかで、人生は大きく違ったものになる。

普通、運命は変えることができない宿命のように思っているが、運命は変えられるのである。運命は天の配剤ではあるが、ただその素材を与えられただけであって、自らつくり得るものだと考えている。もし運命が決まり切った動かせないものだとすれば、私たちは運命に操られる「ロボット」と少しも変わらず、そこには自由も自主性もあり得ない。人間は運命をつくるからこそ存在理由があり、そこから主体性や創造性も生まれるのである。私達は運命を創造することができる存在でもあり、運命のままになる「ロボット」にもなれる。

私は、自分にまつわる好ましくない運命は可能な限り変えていくが、もしそれが不可能なら、それがたとえ理不尽なことであっても起きたことはすべて受け入れる。その上でどう対処すべきかを考えるとともに、その結果がどうあろうとも必ず精神的に成長できると信じている。青年時代に運命に叩かれ、鍛えられ、苦しむことがなかったら、私の人生は形成できなかったと断言できる。

私のわずかな体験から考えを述べたが、今の私の心境、心の持ち方はどうなのか振り返ってみる。90を超えられるなど全く予想もしなかったが、あとひと月余りで93歳を迎える。これまで大小の過ちもあったが、総じて私の生き方、心の持ち方が大筋で狂いがなかったことを天に感謝したい。既に賞味期限が過ぎた私にうま味は少ないが、せっかく与えられた"いのちの働き"を無駄にしては相すまない。急がず焦らず、あるがままを受け入れて、「生きてよし、死んでよし」の心の持ち方を大切にして、残された可能性の限界を見極めてみようと考えている。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談より』

航海日誌