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Vol.149 一言よく人を生かす

2013/11/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「一言よく人を生かす」とは、その一言が大方の人の生き方を変えさせるという意味だろうか。私は「人を生かす」とは単に生き永らえることではなく、その人の持ち味を生き生きと生かすことだと考えている。誰でも心が奮い立つような言葉に感動し、それまでの考えが変わり、生き方も変わった経験を持っているかと思う。私たちは誰でも、自分を生かし、可能性を追求したいと思っている。しかし、いくら万巻の書を読み、聖賢の言葉に触れても素通りするだけで、その中から生き方が変わるような感動が得られるのは不可能に近い。感動を得る一言はどこからくのるだろうか。

私たちが聖賢の言葉に感動を覚えるのは、真理が理解できたからでなく、言葉の奥にある真実に気づくからである。理屈や理性からではなく、心に強く共感を覚える感性がもたらしてくれるのだと思う。言葉は真理を示すことはできても、真実を語り尽くすことはできないのは、言葉にすればするほど真実を見えなくしてしまうからだ。言葉を論理的には理解できても、真実を会得したことにはならない。禅の言葉にも「『悟り』は言葉にすれば嘘になる」と説いているように、言葉は基本的に不完全性を持っている。

感動したからといって直ちに考え方が変わりはしないが、感動が深ければ深いほど、ハッとする「気づき」が必ずある。その「気づき」から、自分の至らなさ、考えの幼稚さを知り、それまでの自分の考えが根こそぎ覆されるから生き方も変わる。どんな金言金句も、「気づき」がなければ馬の耳に念仏に等しいといえる。

「分かる」ことと「気づく」ことは違った心の働きである。「分かる」とは論理的に考える心の働きであり、「気づく」のは考える以前の心の働きで、論理的に分かったからではない。普通それを「ひらめき」とも呼んでおり、今までにない考えが、突然ふっと浮かんでくる不思議な心の働きである。「ひらめき」はとても大事なことで、「創造」の核心となる貴重な心の働きをし、人生を創造的に生きるにも、企業の経営にとっても欠くことのできないものとなっている。そうした「ひらめき」はどうして起こるのだろうか。

「ひらめき」とは、突然天啓かと思うようにわいてくることである。しかし何もないところからいきなり現れてくるわけではないし、それまでに何らかの過程が必要なのである。私の体験では、「ひらめき」は自分がスランプの状態に陥った時、追い詰められ進退窮まって起こることが多い。スランプの状態は嫌がることではないどころか「ひらめき」をもたらす源泉となり、新しい自分を発見する機会を作ってくれる。問題の解決に悩んでいる自分を客観的に見つめることが「ひらめき」につながっている。

スランプ状態から得た「ひらめき」が、私の人生を変えたと思われる体験を一つ述べてみる。私は若くして小企業の経営者となった。未熟な自分を経営者にふさわしい人間に仕立ててみようと、経営や修養の本を読みあさり、各地の経営セミナ―に参加していた。関西経営者協会主催のセミナ―に参加した時のプログラムに、最後の一日を体験学習として、京都のある修養団体への参加が組み込まれてあった。それが何と、便所掃除だった。

バケツとたわしと雑巾を提げ、人家を訪問して便所の掃除をさせてもらうのである。軍隊で何度かやらされた経験があったので、大したことではないと端(はな)からのんでかかっていた。ところが何軒訪問しても断られ、ある店では「商売の邪魔だ、失せろ」と怒鳴られた。見事なまでに鼻をへし折られた思いがした。自分がちょうど、餌にありつけずに街中をうろついている野良犬のような惨めさを味わった。

いったんは止めて帰ろうかと思ったが、待てよ、これができないようでは経営者として失格である。石にかじりついても、土下座してでもいいからさせてもらおうと、ある一軒の農家で真剣にお願いしてみた。麦稈真田(ばっかんさなだ)(※)を編んでいたおばあさんが「うちの便所は汚いですがやってくれますか」と言うではないか。やっと許されたことに、私は思わず飛び上がりたいほど嬉しかった。

おばあさんは嘘を言わなかった。農家の便所だから汚れていて当然で、掃除のしがいがあると思って取りかかった。ところが不思議にも掃除をしながら涙が溢れ出した。やっと一人前になれたという嬉し涙であった。何軒訪ねても断られたのに、ここでどうして許されたのだろうか。その一つは自分の傲慢さである。国へ帰れば小なりといえども一国一城の主であるという、つまらないプライドが邪魔していたことに気がついた。「謙虚であれ」とは何度も聞いていたが、自分がいかに傲慢であったかを心底から思い知らされた。40を過ぎて初めて、自分の愚かさに気づいたのは幸いだったと言わねばならない。

以後、自分がどれだけ謙虚になったかは察知できないが、あの便所掃除に追い詰められたときに気づいた、自分への「愚かさを知れ」の一言が、今でも私の生き方に役立っているのは間違いない。

9月の例会での「体罰をどう思うか」に対する私の答えが、今月のテ-マに関係しているので要約してみた。
 最善の指導者は、体罰は指導の最低としており、むしろ心情溢れる一言が部員を動機づけし、奮起せずにおれなくするのが最高の姿であると考えている。次善の指導者は、体罰は愛の鞭であると受け取られるときにのみ有効と考えている。そのためには前者と同様、部員の尊敬と信頼がなければならないと心得ている。最悪の指導者は、体罰を指導の最適手段と考えている。そのため、彼の励ましの一言は無視され、体罰は「いじめ」と受け取られ、反感を持たれて逆効果を招く指導の最悪の姿である。権力や地位を背景にした力の指導は「百害あって一利なし」である。

(※)麦わらを平たくつぶし真田紐(さなだひも)のように編んだもの。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談より』

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