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Lifting your dreams
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Vol.150 道を深める

2013/12/02

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「道を深める」とは、人として守るべき正しい筋道を深く掘り下げ、人間はどう生き、何のために「いのち」を使うかを問うており、自分の目指すべき人間像を究明するにある。しかし究明の道を深めるのは簡単でなく、自分の内奥に培った人生観、世界観からしか生まれない。

理想の人間像を探求するには、まず自分という人間はどういうものかを知らねばならない。平成17年に「私とは何を指しているのか」「人間の完成」と題して私の考えを述べている。中でも大事なのは、「いのち」は与えられているということである。人間は動物・植物と同じ自然界の一員で、大自然(宇宙)の生成発展の意志が含まれており、それが生きる力と進歩発展を促すエネルギーになっている。

誰もが持っている向上心がそれである。人間は自分をもっと生かしたい、もっとよくしたい、という欲求を基本的に持っている。自分に潜在する可能性を100%発揮し、「自己実現」するのがマズローのいう理想の人間像であり、到達したい最高の状態を意味している。しかし「自己実現」が、人間の「完成」「最高」の状態といえるだろうか。有名な「夜と霧」の著者ヴィクトール・E・フランクルは「『自己実現』は人間の究極の目的ではない。どんなに美化されても『エゴ』にすぎない。人間はそれを超えたスピリチュアルなものを持っていて、『自己実現』では満足せず、さらに『自己超越』の欲求が存在する」と述べている。

彼は第二次大戦中捕らわれて、アウシュビッツ収容所に囚人として暮らす中で、衝撃的な光景を目撃した。囚人の誰もが、ガス室への連行に戦々恐々としているとみていたが、中には、国歌を歌いながら従容としてガス室に入って行った者がいた。また、給食の貴重なパンを病人の枕元にそっと置いて、労役に出ていく者もいた。彼は「こうした人間の崇高な行為はどこから出てくるのだろうか。この自己を超越した行為は超越的無意識からだ」と後ほど発表している。(私は魂のことだと解釈している)

私にも、幾度か自己超越に近い心境になったことがある。その一つは、戦時中フィリピン・マバラカット航空基地から出撃した、日本最初の特別攻撃隊を見送った時だった。昨日まで共に談笑し合っていた若い隊員が、いったん飛び立てば爆弾もろとも敵艦に突入する、死あるのみの出発に、隊員総出で滑走路に出てこの壮挙を見送った。いつものように操縦席から出発の合図をする彼らの姿は、もう人間ではない、神の化身のように神々しく見えた。同時に「俺も続いてフィリピンの土になろう」と、すぐに心に決めることができた。この時、自己を超越できたのではないだろうか。

今考えると、特攻に出ていく彼らも私も、死を当然として受容できたのは、国難に殉じようという気持ちが心の底からわいてきたからだ。この生死を超えた考えは、私には魂の働きであるとしか考えられず、自己を超越し、理想の人間像の最高の境地に達したといえるだろう。とはいえ、戦時中ならともかく、現代のようによく生きることだけに心を奪われていては「自己超越」は難しいのではないか。

では、今の時代に、どうすれば「自己超越」の心境が得られるのだろうか。自己は「エゴ」の塊のようなもので、その「エゴ」を断ち切らない限り、自己を超えるのは難しい。なぜなら、「エゴ(自我心)」の中身は、生来の自己保存本能の上に、理性によってつくられた合理的考えが加わって形成され、常に心の中を占有している。しかも、それに振り回されていることに気付いていないことである。「エゴ」を理性で断ち切るのは不可能であり、また「エゴ」をなくしたら、人間ではなく仏になってしまう。ならば「エゴ」をどう処理すればいいのか。

「エゴ」はそのままにしておいても、魂に目覚めることによってその効力を消滅し、無いも同然にすることができる。魂は誰もが「いのち」とともに与えられているのだが、普段は「エゴ」に包まれてその働きが妨げられている。しかし一度崇高な目的意識に目覚めるなら、本人にその意志がなくても、自己超越的な行為に駆り立てるのである。最近、線路内にいた老人を助けようとして亡くなった婦人も、理性では考えられない自己を超越した人に違いない。

私たちの行うボランティアも、人のために尽くす「いのち」の働きであり、行為そのものの中に喜びが含まれている。それはエゴを追求して得た感覚的な喜びでなく、魂の喜びであり、「いのち」を燃やす行為の時にのみ生まれる。この喜びを追求したいと思う行為が習慣となった時に、いつの間にか「エゴ」を支配下に置くようになり、自己を超越した人格が自然に形成されていくのではないか。

私たちの「いのち」は与えられたのであり、空気や水、太陽の光や熱なしに、大自然に育てられた植物・動物を食せずには生きていけない。その自然の恩恵に感謝し、自分が個体としてではなく「魂」の存在として、大自然と強いきずなで結ばれていることに気付く時、宇宙との一体感が生まれ、自己超越の境地が得られるのではないだろうか。私たちの目指すべき理想の人間像への道をさらに深めていきたい。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談より』

航海日誌