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Vol.152 君子、時中す

2014/02/03

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「君子、時中す(ときにちゅうす)」とは、「立派なリーダーは、その時その時にふさわしい手を打ち、あらゆる矛盾、相克を克服してどこまでも進歩していく」という意味であると致知誌に示されている。すなわち、あらゆる問題に速やかに対応して、てきぱき処理し、進歩発展し得るリーダーの資質はどうあるべきかを問うている。

企業の経営を担当するリーダーの職務は、会社の発展と人材の育成であると私は考えている。その中で始終気をつけていることは、矛盾と相克の克服の問題である。リーダーの一言一句が終始一貫つじつまがあっているか、またそれが世の中の情勢変化に即した考えになっているかである。その矛盾、相克の一つは、企業の至上命令は勝つことではなく、成長、発展させることである。今までは競争して勝つことが発展に資すると考えてきたが、もはや競争に勝つことが必ずしも繁栄につながらない時代に変わってきている。

これまで私たちの住む社会は、競争を原理にして、弱肉強食という自然の摂理に基づいて営まれてきた。しかし今日では、世界各国の経済、政治、環境が一体化している状況にあり、もはや競争や対立の原理では発展することが不可能になってきている。今までは、競争が進歩と発展の原理になり得たが、最近では、一国に起きた経済的出来事や政治的出来事、環境条件の変化が全世界に影響を及ぼすようになっている。

だから、競争の原理は、もはや成長、発展の原動力ではなくなってきている。例えば、経済的に困窮し、餓死者が続出している国を放置した上、さらにそこから搾取するような今までの経済原理を持ち続けていては、自分たちの経済もたちまち限界に達するのは明らかである。できるだけ貧しい人を少なくし、すべての人を中産階級化していかなければ、作ったものは売れないし、いかなる先進国も経済的発展に結びつかない状況に差し掛かっている。

そのためにはどのような考えが必要なのか。それには勝つことよりも力を合わせることによって、より大きな価値が生まれることに気づくことである。今までは勝つことに最高価値があるとされていたが、世界が一体化した今日は、勝った方もかえって新たな問題を作り出している。勝つことよりも、力を合わせることによって新しい進歩につながるという考えに、世の中が変わってきている。その証拠に、第二次大戦後60数年もの間、世界の平和と繁栄が続いているのを見ても分かる。だからといって、競争が不必要だというのではない。競争があるから進歩と発展があるのだが、あくまでも勝つための競争でなくて、自らの実力を伸展するために必要な競争でなくてはならない。

企業の間に競争原理が働くように、人間界にも競争の原理が介在する。人にはそれぞれの経験から、価値観や考え方が生まれ、個性を作っている。だから人が個性的であればあるほど、競争が生まれ対立するようになるのを、誰もが経験している。この矛盾と相克をどう解決するか、どのように乗り越えるかが、器の大きな人間になれるか、小さな人間に終わるかの分かれ道となる。

包容力のある、度量の大きな人間になるには、どう考えればいいのだろうか。相手は自分と違った人生経験から考えを主張しているが、それは自分にない考えを持っているから対立する。自分を成長させたいなら、自分にない考えを持つ相手から学び取っていこうと考えることである。相手から「学び合う」ことは、対立する矛盾が相互補完の関係となり、互いを必要とし助け合う人間関係を作り出すことになる。かくして競争と協力との矛盾が解消し、完全に一致することによって互いに成長の契機となる。これが器を大きくする基本的な考えである。

「競い合う」から「学び合う」の切り替えが難しいのは、論争から起 こる感情の対立で、その多くは各人の持つ偏見から生じている。ならば、原因になっている偏見をなくせばいいが、それは不可能といえる。なぜなら、人間は自分の立場からしかものを見ることができないように作られているからである。しかし、偏見をなくすことはできないが、脱却する道はある。それは、自分には取り除き難い偏見があるのを「自覚」することである。この自覚によって、始めて偏見から抜け出すことができて、他人の言うことを受け入れられる素地が生まれてくるのである。

佛教では、自我を捨てろ、我欲を捨てろと言うが、自我は偏見の塊である。人間は神や仏のような人間を目指すならば、確かに自我は捨てなければならないが、自我を捨ててしまっては人間でなくなってしまうし、人間としての喜びは消えてしまう。自我は、人間である限りなくすことはできないが、脱却することはできる。自我は捨てなくてもいい。自分には、箸にも棒にもかからぬ自我を持っていることが「自覚」できれば、自我は自然消滅、大我に変身する。これが矛盾と相克を解決できる人間に成長する根本である。

私がこれまで企業のリーダーとして、また一人の人間として、かねがね気になっていた矛盾と相克に対する考えを整理してみた。だから自分の心に言い聞かせるためのものであって、教訓めいた内容になっていることをご容赦願いたい。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談より』

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