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Lifting your dreams
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Vol.154 自分の城は自分で守る

2014/04/02

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

このテ-マについて最初に頭に浮かんだのは「愛国心」であった。「城」を「国」に置き換えてみたからだ。最近、国を守る意識について、世界の青年を調査した報告記事があった。「他の国から攻められたとき、あなたは国を守るために戦うか」の問いに、「イエス」と答えた数が米・中・韓のいずれの国よりも日本の青年の数が低かった。国を愛せない人間がどうして隣人を愛し、家族を愛し、自分を愛することができようか。

先進国で徴兵制度がないのは日本だけだと思う。私が40数年前スイスを訪ねたとき、国民皆兵だと言われ、民家の部屋に黒光りの銃が備え付けられているのを見せてもらった。スイスが二度の大戦にも中立を守り、建国以来平和を続けている唯一の国であるゆえんである。わが国の青年はもっと自分の国を誇りに思い、守る気持ちを持ってほしい。私は青年時代の三年余りを祖国防衛のために命を捧げて戦ったが、大切な自分の青春を失ったとは決して思ってない。それどころか、誰でも持てない死生観を得られた上、日本の国に生まれたのを心底から喜べるようになっている。

続いて心に浮かんだのは「自律心」であった。自分の人生(城)は自分でしか作れない。国だけでなく人も、他からの保護や干渉を受けず、独自の規範に従って行動を規制する、独立自主の精神が必要だと考えた。国や隣人を愛し、自分をも愛する愛は、我を忘れて他のために尽くす努力の行為である。ゆえに自律心の伴わぬ愛は本物ではない。恋は誰にも生じる自然現象で努力は要らないが、愛は自分を律する心が行為となって現れる。

だが、自主自律は言うは易いが、その実行はとてもじゃないが難しい。なぜ難しいかと言えば、自分が自分自身を規制するということは、行動する自分とそれを規制する自分の二人の自分が居ることであり、本当の自分がはっきりしてないからである。本当の自分は一体何なのか。この肉体でもなければ心でもない、感性〈魂〉のハタラキこそが本当の自分なのだと私は考えている。それを高松木鶏クラブ例会において、平成17年2月「私とは何を指しているのか(続)」、同年5月「ほんとうの自分」と題して述べた。さらに、最近この私の考えを裏付けるような記述に出会った。トルストイの著「人生の道」の一節を引用させていただく。

― いかなる人間にも二人の人が生きている。その一つは盲目の肉体的なそれであり、他の一つは活眼を備えた霊的なそれで「良心」と呼ばれる。そして人間のこの霊的な部分、すなわち良心は、羅針盤の指針と同じで、それを携帯せる人が、それの指し示す進路から離脱するときに初めて働く。良心も、私たちが行うべき事を行っている間は黙って発言しない。

しかし、私たちが真実の道から離脱した場合、良心は直ちに活動して、どういう方向へどれほど迷い込んだかを示すのである。その良心とはすなわち、万人の内部に宿り住んでいる、唯一絶対の霊的存在の声のことである。良心なるものをこのように理解したときに初めて、人生の羅針盤として確実な指導者となるのである。

私たちは、常に自己の背後に何者かの声を聞くことがある。けれども、頭をめぐらして声の主を見ることは出来ない。もしもこの声に正しく服従し、彼を自己の内部に受け入れるならば、私たちはたちどころに、この声の主と彼とが同一のものであることを感得するであろう。そして私たちがこの声を自分のものと考えるようになればなるほど、ますます私たちは幸福になるであろう。そしてこの声は私たちに至福の生活を啓示するであろう。なぜならば、この声は自己の内なる神の声だからである。魂は永遠に滅びない。なんとなれば、真に存在するものはひとり魂のみだからである。ただ、神がより深く自由に通過するようにするため、魂を曇らせたり汚したり、不自然に照らしたりしているものを洗い清むべきである。

私たちはいかなる場合にも、自分に向かって「我とはなんぞ、私はただ今どういうことを行ったり、考えたり、感じたりしているか」と反問し、そしてこう答えることが出来る。「ただ今私はこれこれしかじかの事を行ったり考えたりしている」と。しかしながら、もし私たちが自分に対して「私が行ったり考えたり感じたりしている事柄を私の内部に作り出したのは、一体それはいかなるものであるか」と反問するならば、「それは自分の認識である」という意外、なんとも答えることが出来ないだろう。この自由の認識こそ、私たちが霊と名付けるところのものである。

私たちの生命は肉体の中にはなく、魂の中に存する。しかも肉体と魂との中にではなく、ひとり魂の中にのみ存する。人間は魂と肉体を自己の所有と考え、絶えずこれに心を煩わす。しかしながら、真実の「汝」は汝の肉体ではなく、魂であることを知らねばならない。この一事を心に銘するがよい。自己の魂を肉より高く発揚せしむるがよい。そうすればこの一生が必ず快適に送られるであろう ―
と述べている。

私がこの書を手にしたのは半世紀も前だったが、そのとき「いかなる人間にも二人の人間が・・・」の一節を、何の気なしに読み過ごしてしまっていた。恥ずかしながらこのトシになって始めて彼の考えの深さを知り、やはりトルストイは凄い、文豪である上に偉大な哲学者だと思った。

もう一つは、米国の心理学者ケン・ウイルパ-の著「無境界」にある。超越的自己とは、自分の中にありながら自分を直視する「内なるわたし」が本当の自分であると、次のように述べている。

― わたしは一つの身体を持っている。だが、わたしは身体ではない。わたしは身体を見ることも感じることもできる。見ることができ、感じることができるものは、真の見るものではありえない。身体が疲労していようが興奮していようが、病んでいようが、健康であろうが、重かろうが軽かろうが、自分の内なるわたしとは何の関係もない。

わたしは欲求を持っている。だが、わたしは欲求ではない。わたしは欲求を知ることが出来る。知ることができるものは、真の知るものではありえない。欲求は去来し、自覚に浮かんでくる。だが、それらは自分の内なるわたしには影響を与えない。わたしは欲求を持つているが、わたしは欲求ではない。

わたしは感情を持っている。だが、わたしは感情ではない。わたしは感情を感知することができる。感知されうるものは、真の感じるものではない。感情はわたしを駆け抜ける。だがそれらは自分の内なるわたしには影響を与えない。わたしは感情を持っているが、わたしは感情ではない。わたしは思考を持っている。だが、わたしは思考ではない。わたしは自分の思考を知り、直観することができる。知りうるものは、真の知るものではありえない。思考は去来するが、それらは自分の内なるわたしには影響を与えない。わたしは思考を持っているが、わたしは思考ではない ―

人間が目指す最高価値は愛である。自分を無にして他に尽くすことによって示され、その行動を促す自律心は、自分の内なるわたし、真の自己である魂の自覚によってのみ得られる。これが「自分の城は、自分で守る」の真髄ではないだろうか。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談より』

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