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Lifting your dreams
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Vol.156 不易流行

2014/07/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

不易とは、万古不易ともいい、時代がいくら変わっても不変であり、また変えてはならぬものがあることをいう。流行とは、時とともに広く移り変わっていくもの、また変えていかなければならないものといえる。生きる上で、変えてはならないものと変えていかなければならならないものがあり、「不易流行」は私たちの人生にも当てはまる。

私たちにとって、時代が変わっても変えてはならないものは人生の目的であり、変えていかなければならないのは自分自身ではないだろうか。いずれも私たちの一生を決定付ける大事なことであり、自分の一生を何のために費やすかを決める前提条件である。しかしこの問題は雲をつかむようで、誰もが深く考えようとはしない。

自分が何のために生きるかを考えようとしない人生は、ただ生存しているだけで、不安な寂しい人生になるのは間違いない。何のために生きるかがはっきりして初めて、どのような生き方をすればよいかが決まってくる。そこから何をなすべきか、なすべきでないかという日々の行動様式がもたらされ、目的如何によって人生をどのようにでもつくりかえることができると思う。

人生はとても長い年月のように思うが、実は日々の行動の集積でしかない。日々の生活の中で、人生の目的という大問題がそう簡単に見つかるわけがない。しかも個々の人生は百人百様違って当然で、定義付けられないから教えることができないし、他から教わるものでもない。それは自分で考え尽くし、このためなら自分の一生を費やしても悔いない「魂が納得するもの」でなければならない。「いのち」を賭けるからこそ、一生変わらぬ原動力となって人生をつくっていくことになる。従って、時代がいくら変わっても、変えてはならないのは人生の目的以外にない。

納得できる人生の目的はどうしたら見出せるのだろうか。そのヒントとして、自分は何のために生まれてきたのか、また何のために死ねるかを考えてみるとよい。極論すれば、「いのち」はどうして得られたのか、「いのち」とは何か、をはっきりさせることである。平成22年の8月号にも書いたが、人間はもともと虫や草木と同じ大自然の生命体の一部であり、「いのち」は持って生まれたのではなくて、「いのち」を与えられたからこの世に生を受けている。「いのち」は大自然・宇宙の意志(神)が必要としたから与えられたのであって、大自然の生命力ともいうべき進化と発展の意志を戴している。

アメリカを代表する心理学者カ-ル・ロジャ-スの「人間の本性についての覚書」がある。『この世におけるすべての「いのち」あるもの、ウニであれ、微生物であれ、草木であれ、すべては等しく「いのちの働き」を分け与えられた存在である。人間もまたこれらと同じ「いのちの働き」を分け与えられたものとしてこの世に存在している。また人間は生来、他者との安全で親密な関係を欠いては満たされないようにできている。このような人間観が核となって、海藻であれ、ミミズであれ人間であれ、ありとあらゆる生命体は、自らを維持し強化する方向に向かっていくようにできている。「いのち」あるものは、本来自らに与えられた「いのちの働き」を発揮して、よりよく、より強く生きるよう定められている。』と述べている。

だいぶ前に、人間には生まれつき向上心というのが備わっていると述べたことがある。私たちに与えられている「いのち」は、大自然の生命力ともいうべき進化と発展の意志を戴しており、その現れが向上心なのである。人間が向上するとは、進化し発展してよりよくなるように変わることであり、人間が変わるとは、よりよい自分をつくっていくことである。

自分が自分をつくるとは一体どういうことか。それを分かりやすく示しているのに、「自分を師とするなかれ、自分の師となれ」という言葉がある。自分とは自我のことで、自我心は私たちが生まれてから覚えた言葉と現実とを組み合わせながらつくり上げたもので、合理的にしか考えられず不完全でコロコロ変わるから頼りにならない。普通これを理性と称して行動の規範としている。一方、「信じる」とか「愛する」「許す」などは魂から発する心情であって、理屈ではないので理性からは生まれることがない。

自分がつくった理性を金科玉条としてそれに盲従し、魂の存在に気付かないと、理性は常に魂を覆い隠してその出現を封じ込めてしまい、自分の師となり得ない。私たちは魂という素晴らしいものを与えられているのに、なぜそれに従うことができないのだろうか。自分をつくるのは自我心や理性ではなく、心の奥にある魂でしかない。「いのちの働き」である魂を師とせよ、それが自分をつくり変える原動力となり、大自然の進化と発展の意志に沿うことにもなる。これこそが人間の「不易流行」といえるのではないか。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談より』

航海日誌