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Vol.159 魂を伝承する

2015/01/05

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

今月の命題は「魂を伝承する」。「魂」というのはとても表現しにくい言葉で、ウェブスター辞書に「魂は人間に生命を吹き込み、生命を与えるもの、生命の息吹」と定義しており、人間とは本質的に魂を持つ生き物であるという。また講談社大辞典には「魂は肉体に宿って、心の働きをつかさどると考えるもの。霊魂、精神、気力ともいう」とある。今回はその「魂」を受け継いで、後世に伝えよと訴えている。

各辞書の「魂」についての解釈は正確ではあるが、何度読んでも分かりにくく、納得してほかに伝えられるとは思えない。「魂」は見ることができないし、実態がないので、言葉で表現しようとすればするほど分からなくなるからだ。それは、感じること、理性を超えた感性の働きによってしか知ることができないからである。でも私たちは誰にも教わっていないが、常には次のような言葉を介して「魂」の存在を感じとっている。

例えば、「魂を入れ替える」は、心を改める、性根を入れ替えることをいい、「魂を冷やす」は、非常に驚き恐れ、肝を冷やすことをいう。「魂胆がある」は、意図や企みがあること、「大和魂」は日本民族固有の精神を表し、私自ら送り出した特別攻撃隊の操縦員の心などである。このように私たちは、詳しいことは分からなくても、魂の存在をそれとなく理解している。だが、自信を持って魂を伝承するほどの内容を持ち合わせている人は稀である。

魂の存在を知り、魂に目覚めることはとても大事なことである。私たちのものの見方や考え方が、科学的合理的なものから精神的、人間的なものへと変わり、価値観や人生観を変えてしまうからである。それは同時に「死とはどういうことか?」「死後の世界はあるのか?」などについて、全く新しい世界の発見につながる。魂については、平成15年10月と11月、平成17年2月と5月に、「私とは何を指しているのか?」「本当の自分とは?」に断片的に触れているので、今回それらを補足してみたい。

魂の働きは、広い視野でものを見ることができる能力であり、物理学者ミチオ・カクは、金魚鉢の中で泳いでいる金魚の群れを例として使っている。「現状では、金魚は金魚鉢の中で水という液体の中にいるという自覚はない。彼らはそれを当然と思っている。だが一匹の金魚が大きく跳ね、水面より上に飛び出し『わっ!』と叫び、『ぼくはあんな所にいたんだ』と。この金魚は一段上の視点から金魚鉢や仲間の金魚や水を見て、自分が金魚鉢と水の世界から来たことを悟る。そして今や、金魚鉢の外にもっと大きな世界があることを知る。この金魚は広い視野でものを見るようになり、現実を違った目で見るようになった。」こういった金魚の例のごとく、魂の働きが影響し、私たちの人生を変えるようになるのではないか。人は変えることができるのだ。

ではなぜほかの金魚は水面より上に飛び出なかったのか?それは、いのちを失う怖さに、金魚の心が魂の自由な活動をふさいだからだ。また、いのちを賭けた行為だからこそ大いなる恵みを得られたのだと思う。大辞典にも「魂は心をつかさどる」とあるように、魂は心の指令者であり、心は魂の従者でなければならない。その心は、生まれた時から、与えられた理性と本能が力を合わせてつくり上げた不完全なものだが、魂を包んでいる。小我心ともいい、したたかで常にのさばり、魂の自由な働きを妨げることが多い。仏教で「少欲でなければ悟れない」というのは、このことを指している。

では魂といのちはどういう関係にあるのだろうか。私にとって、いのちは与えられた預かりものであると述べてきたが、いのちには、人知の及ばぬ大いなるもの、宇宙の意志を戴した魂が含まれていると考えている。魂は殻となる肉体を得ていのちとなり、それを生命の誕生という。故に魂は、宇宙の意志と太い絆で結ばれている。死ぬ時、魂を包む肉体は消滅するが、魂は故郷の宇宙の意志のもとに還っていく。

つまり、私たちの死は、魂の里帰りという新しい旅立ちなのである。しかも、故郷へ絆を伝って行く先で、亡き両親や親しい友人に再会できるかもしれない嬉しい出来事が期待される。また、宇宙の意志が必要とするならば、再びこの世に生まれ変われるかもしれないのだ。齢90を数えるようになって初めて、このようなことに気付いた。

どれほど説いても、死に対する不安をすっぱり無くすることはできないと思う。安心して死を受け入れるにはどうすればいいのだろうか?医者は生き延ばすことしか考えず、お坊さんは死んだ後になって弔ってくれるが、安らかに死ねる死に方は教えてくれない。『死ぬ瞬間』の著者キューブラー・ロスは「死ぬことは易しいが、本当に難しいのは生きることである。死、それは成長の最終段階である」と述べているが、同感である。

死に易いその訳は、私たちが夜眠りに入る時、自分がいつ寝入ったかを知ることができないように、死ぬ時もいつ死が訪れたかを意識することができない。つまり、いつの間にか寝入ってしまうように死んでいけるのである。その自覚することができず、対面することもできない死を怖がるのはナンセンスといえるのではないか。

さらに気付いたことは、これまで私は魂の存在について、「私には魂がある」「私は魂を持っている」という小児的な理解の仕方であった。だが、魂の真実の理解というのは、「私の魂」でなく、「私が魂」であり、「魂が私自身」であることである。アメリカの心理学者ケン・ウィルバーも「私は誰か」「真の自己とは何か」の中で次のように述べている。

「私は一つの身体を持っている。だが、私は身体ではない。私は身体を見ることも感じることもできる。見ることができ、感じることができるものは、真の見るものではありえない。身体が疲労していようが興奮していようが、病んでいようが健康であろうが、重かろうが軽かろうが、自分の内なる私とは何の関係もない。私は欲求を持っている。だが、私は欲求ではない。私は自分の欲求を知ることができる。知ることができるものは、真の知るものではありえない。欲求は去来し、自覚に浮かんでくる。だが、それらは自分の内なる私には影響を与えない。私は欲求を持っているが、私は欲求ではない。」ケン・ウィルバーも、真の自己は、身体でもなければ心でもない、自分の内なる私という魂だと述べている。

「魂」について私なりに考えてみたが、ここにきてその必要はなかったといえるかもしれない。なぜなら、魂は誰もが誕生の時いのちに含まれていて、宇宙の意思である「愛の力と意思の力」を生む母体なのである。それが本当の自分であることに気付かずにいるだけある。この気付きを妨げているのが何であるかは先に述べてある。魂について私なりに表現してみたが、十分とはいえないので、今後さらに深めて魂を伝承していきたい。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談より』

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