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Vol.161 堅忍不抜

2015/05/07

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「堅忍不抜(けんにんふばつ)」は私の大好きな言葉である。辛抱強くこらえてくじけない、苦痛に耐え抜く強い意志を持っていることである。意志の力で自分の欲望・感情などを支配できる克己心(こっきしん)とも言える。「己に克つ」と言葉で示すのは簡単だが、これほど難しいことはない。なぜなら、己・自分・私・俺と言っている自分自身の中身が明確に把握できていないからである。

己に克つのが自分自身であるなら、己とそれに克つ自分自身の二人の自分がいることになる。また、誰でも時々反省することがあるが、その時も省みる自分と省みられる自分の二人の自分がいる。どちらが本当の自分なのか。さらに、二人の自分はどんな関係にあるのか。そこには「心と魂」の問題が浮かび上がってくる。

克己心というのは、意志の強さに関係していると思われる。世の中には「自分は意志が強い」という人より、「なんて意志が弱いのだろう」と思い込んでいる人の方が多いように思う。昔から三日坊主という言葉があるように、私たちは何か良い習慣を身につけたい、または悪い習慣をやめたいと固い決心をしても、いつの間にか尻すぼみになってしまうことが殆どである。それを何とかしようと「意志が弱い」自分に鞭打っても、結果は前と同じになってしまう。何故かと言えば、肉体を鍛えるのと同じように、弱い意志力を鍛えられると思うところに大きな錯誤がある。肉体と同じように意志という形があるわけではないから、肉体を鍛えるように弱い意志を鍛えることは、もともとできない相談である。

問題は、強い意志が自分のどこから出てきているのか、その出所に関係していると思う。つまり、出所いかんが「三日坊主」になるか「やり抜く」かの分かれ道となり、それを「意志が弱い、強い」と言っているだけである。その出所は二つあって、「心」から出る意思は弱く、「魂」から出る意志は強いと言える。なぜなら、心は、本能と理性が言葉を通じて自分が生まれてから作ったもので、合理的にしか考えられずコロコロ変わるから弱く、魂は、宇宙の意志を戴し て命に含まれて生まれ、そこから湧き出る意志は命が懸かっているから強い。ところが、私たちは自分で意識できる心を、精神作用のすべてだと思い込んでいるので、心の奥にある魂の存在に気付いていないのではないか。

心と魂は別ものである。「心」は表層心理という顕在意識であり、うわっかわ(上側)の自分、自我・小我とも言われ、「魂」は深層心理という潜在意識であり、真我・大我・本当の自分・自我の奥底とも言われている。心は私たちの精神作用の僅か5~10%ぐらいしか占めていなくて、その心が覆い隠している魂こそが精神の本体なのである。だが私たちは、精神作用の10%の心に常時振り回され、魂の存在に気付くのは稀である。

心と魂の違いと関わりを分かり易く言えば、睡眠中には心は眠ってしまうが魂は眠らず、生きている限り働いている。朝早く4時に起きる必要が生じたとき、アラームの助けを借りずとも「明日は4時に起きるぞ」と決意するだけで、その時間に目が覚めるから不思議である。それは四六時中起きている魂のなせる業である。「4時に起きる」という言葉を、心でなく魂に言って聞かせて、承知させていたのだ。

私は、海軍へ入隊の一年間をハンモックで寝た。朝、起床ラッパを聞いて慌てて起きたのでは皆に遅れてしまうので、ラッパが鳴る前に目を覚まし、そっと身支度し、ラッパの鳴るのを待ち構えている。鳴った瞬間跳び起きてハンモックを固縛し収納するのだが、各班競争で遅れた者は罰として、ハンモックを担いで兵舎一周を科せられる。こうして私は、5分前の精神[スタンバイ]を叩き込まれ、アラームなしで早起きの術を会得できた。それは、魂が納得したのである。以来、家には目覚し時計を置いていない。

魂の存在に目覚めている人は、なにか「やるぞ」という決意を、同じように魂に言って聞かせて、魂がこれを承知することによって強い意志となり、「やり通す」ことが容易になる。しかし、魂の存在に気付いていないと、決意は「聞いてくれない」から三日坊主に終わってしまうことになる。早起きを何十年も続けている人を見て、「意志の強い人だなあ」と感心するが、本人はそれを楽しんでやっているのである。もしこれを自分に鞭打ってやっているのであれば、一カ月も続かないに違いない。

私が寒中でも早朝に、プールでの泳ぎを何十年も続けられているのも、鞭打っているからではなく、気持ちが良いから長続きするのだ。厳寒の日はさすがに辛いこともあるが、その辛さよりも、やり終えた気持ち良さの方がさらに上回っている。その快さが尾を引いて一日中気分がいいのである。

したがって、意志が弱いのは「魂の働きを心が阻害」しているのに起因していると言える。なぜならば、心はとかく末梢的な五官の感覚を喜ばせるような快楽を求めるが、魂はもっと次元の高い快楽を求めるからだ。だから、五官にとっては苦しく心が喜ばないことを、魂は快楽とすることがある。たとえば、心はとかく舌の快楽を必要以上に求めて、食べすぎ飲みすぎで健康を損ねることがあるが、魂の方は逆に粗食や節制を好み、必要となれば断食さえも快楽とする。その方が気持ちが良いし、心身ともにプラスになると思うからである。

苦と楽は反語で、誰でも苦は嫌だが楽はしたいと思っている。しかし、人生には「苦しいから楽しい」ということもある。「困難だからこそやり甲斐がある」という例は登山にもある。重いリュックを背負い、生命の危険さえある困難な山道を、汗水たらして体力を消耗させて挑む。苦しいから、難しいからこそ登山への挑戦に喜びを見出すのである。

登山は「困苦即快楽」で、苦しいからこそ、危ないからこそ登り甲斐があるのである。そして最後に「頂上を極める」という喜び、目標達成したときの「やったあ!」という快感が、魂の快感なのである。登山家は一度その快感の味を占めるとまたやりたくなり、次はより高く危険の多い山を目指すに違いない。その目標が大きいほど、やり遂げた時の快感も大きいからである。

登山には苦痛に耐え抜く忍耐が必要であることは言うまでもない。忍耐を煎じ詰めれば、自己支配力、すなわち克己心であって、自分の欲望や感情を制する力が備わっていることである。その克己心は、心が発する意思からではなく、魂から沸き起こる意志でしかない。とかく苦難や危険を避け、臆病になりがちな自分を鞭打てるのは、魂の命令に自分を従わせることによってのみ可能となる。すなわち、「堅忍不抜」の根源は魂の働きであると考える。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2015年1月)より』

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