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Vol.162 未来をひらく

2015/07/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「未来をひらく」という言葉から、私たちは遠い将来を連想してしまうが、未来とは、実は明日から死ぬまでのことなのである。また、未来をひらくとは、自分の未来をどう創っていくか、自分の運命を創造することであるとも言える。このとき一番問題になるのは、私たちが死に至る存在であること、老いも若きも一日一日死に近づいていくという現実である。この生死の問題を抜きにして、答えは出てこない。すなわち、誰もが持つ死に対する不安や恐怖を抱えたままで、積極的に自分の未来を考えることはできない。

「未来をひらく」とは、死を迎えることを正しく認識してこそ、初めて、さればどのような「生き方」をしなければならないかを知ることができる。つまり、より良く生きるということは、実は、いつ死んでも悔いない一日を過ごすことである。ほとんどの人は、死は生きている自分に襲い掛かってくる非情な出来事のように思って、死を忌み嫌い、不吉なこととして口にすることさえはばかられる。葬儀を出した後、塩をまいて清める風習さえまだ残っている。しかし、死から目をそむけて生きている限り、私たちの成長・進化はありえず、未来の展望もおぼつかない。

私は昨年、四カ月にわたる寝たきりの病床中、死を見つめざるを得なかった。このまま逝っても不思議ではない年齢だし、また、我ながらよく働いた自分を褒めてやりたい気がした。思えば私の人生は素晴らしかった。力一杯出し切ったからだ。もし再び生まれ変われるなら、今生で味わった、波乱に満ちた過酷な人生をまた選びたい。今はもう思い残すことは何一つない。死ぬも生きるも、大自然の摂理に委ねてもよい境地を得たように思う。

死は眠りと同じで、少しも怖がることではない。私たちが眠るとき、いつ眠りに入ったかを意識することはできないが、いつの間にか眠っているのである。死もこれと同じように、自分の死を知ることができない。死ぬ時には意識がないから、知らぬ間に死んでいるのである。哲学者キケロも死について、「眠りほど死に似たるものがないのは知ってのとおりだ。しかるに魂がその神性を最大限に顕すのは眠っている時である」と述べている。死は魂の新しい旅立ちなので、めでたいのだ。

私たちが死を怖がるのは、現に今生きていて死ぬことを考えるからかもしれない。死は生に繋がって訪れるものであるが、生きているところへやってくるのではない。私たちは死の直前まで生きているが、死ぬ時は生きていない。だから、自分の死そのものと対面することはできない。その出会うことのない、私たちに感知することのできない死を怖がるのは、夜道で縄を蛇かと思って怖がるのと同じである。死の問題を人生の非常な出来事として取り上げるから、恐れたり悲しみ悩むことになるのである。自然の現象、大自然の摂理であると思えば、何も騒ぎ立てることはない。

もし永久に死なない人生があるならば、世の中は爺さん婆さんばかりの地獄の苦界となるだろう。限りある人生だからこそ意義があり、尊いものと考えられるのではないか。もし私たちが不死であったならば、あらゆる行為を無限に延期できるし、それを今行おうが、一年後にしようが、永久に延期することが可能となる。死という制限があればこそ、与えられた生涯の時間を無駄にしないよう、活用し尽くすことに気付かされるのである。

死に対する恐怖をなくするただ一つの方法は、自分の命を所有として、持ち物として取り扱わないことである。大抵の人は、命は自分が持って生まれたものと思っているが、それは錯覚である。命は与えられたから生まれることができたのである。もし命を自分の所有と思うなら、なぜ死期が迫った時しっかり掴まえていないのか。自分の意志に関係なく、ひとりでに命は去っていくではないか。命は自分の所有ではない、与えられたもの、生きている間の預かりものであると分かることである。自分の所有と考えている限り、それを失うことの恐怖から逃れることはできない。

生命はもとより、財、地位、権力などあらゆる形の持つことへの欲望を、捨てれば捨てるほど、それを失う恐れがなくなる。失う心配がいらないから完全な心の解放と、真の自由を持つことができる。今ある生命はもとより、財、地位、名誉はすべて与えられたもの、預かりものと思えるとき、初めて安心立命の境地が訪れるのである。

生きるということを一般には、40代で死ぬのは早すぎる、80代なら寿命だなどと年月の長さで表すが、生きることの価値は年月の長短ではなく、どのように「生きた」かである。自分として悔いのない、価値ある「生き方」をしていれば、たとえ30歳で死んでも短いということにはならない。また、80、90まで生きたとしても、生き甲斐もなくただ何となく日が過ぎていたなら、少しも長生きしたことにはならない。それに引き換え、一日一日を大切に、自分にとってこれ以上の「生き方」はないと言えるような、充実した「生き方」をしていれば、いつこの世を去っても悔いも不満もないといえる。

今若いから、またどんなに頑健であっても、いつ来るかも知れないのが死である。今日まで逃れてきたのが不思議なのだ。死期の訪れというのは常に不意打ちなのである。いつ来ても仕方がない死なのに、私たちは相当の年齢まで生きられるのを当然と考え、私たちの目を真実から遠ざけている。人は死を見つめるからこそ、生を見極めることができるのであって、老いの先にあるのは確実な死だと知るからこそ、生きている今をありがたく感じられるのである。

自分が死すべき運命にあることを本当に受け入れることによって、むやみに死を恐れなくなり、死の恐怖から解放されてこそ、真の自由を手に入れることができる。それが仏教でいう「悟り」である。死を素直に受容できる人は最も生産的な人であり、凡ての苦悩から解放されるのはもとより、最も多く楽しみ、最も多く喜びを持つことができる人である。

私は青年期の何度も生死の境を越えた経験から、死に対する恐怖心が薄れ、自分の命が預かりものだと受け取れるようになっていた。そのためか、傍から見て、向こう見ずかと思われるようなリスクを難なく乗り越え未来を開いてきたように思う。70年前、親子3人で始めた町工場だったが、今や世界中から需要が寄せられるまでになった。これは、未来を開いてきたと言えるのではないか。キューブラー・ロスが「死は成長の最終段階である」と言った。私もこの遺された有意義な機会を、成長のための究極の自己実現に向けて未来をひらいていきたい。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2015年2月)より』

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