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Vol.164 生きる力

2015/11/04

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

私たちは、生きているのが当たり前であるかのように日々過ごしており、なぜ生きるのか、生きるとはどういうことかを考える人はごく稀である。しかし、予期せぬ災害を被ったり、病に冒されたとき始めて、生きていく何らかの力が働いていることに気付かされる。それが「生きる力」といえるのではないだろうか。その力は、ただ単に生命を護る働きだけでなく、私たちが生まれてから生の尽きるまでの、生命力・いのちの働きである。

その生命力・いのちの働きは、いったいどこから、どうすれば湧いてくるのだろうか。それを一言でいうなら、「死を見つめる」ことである。生きることだけをいくら考えても、答えは見つからない。生きることは、同時に死に向かっていることだから、死を明らかにしないで、生きる意味を知ろうとするのはできない相談である。

多くの人が、死について考えるのは悲観的で消極的のように受け取っているが、死を考えようとせずに、何とかして逃れようとすることが消極的なのである。死を真正面から見つめ、そこに到達する道筋を考える方が、よほど積極的であり、創造的ではないだろうか。何のために生きるかは、何のために死ぬかと同じなのである。そのためには、自分の一生を棒に振っても構わない、一生を賭して悔いないものを見つけること、それが「生きる力」の源泉になるのではないか。

自分の人生の意味や目的は、誰かに教わるものではない、自分で探して見つけ出すものだ。考え出すものでなく、見出さなければならないものである。知るものではなく、機が熟したときに目覚めるものである、自分で発見するからこそ納得ができる。そこから、生きる意味と目的を掴むことができ、さればどう生きるべきかを知ることができる。

V・E・フランクル著「生きる意味」を求めての中に、人は、探求すべき意味を見出すならあえて苦しむことを甘受し、犠牲に身を捧げ、そのために自らの命をも捧げる覚悟をする。そのことが今でも見過ごされ、忘れられてきたのである。また反対に、生命を懸けたいと思うような意味が存在しないとき、たとえ人間の欲求すべてが満たされていても、人は敢えて苦しむことも覚悟の上で、意味へ向かおうとするものなのである、と述べている。

生きるということは、ただ単に生き永らえることではない。この命をどう生かすかであり、なにかに命を懸けることである。だから、命の最高の喜びは、命を懸けても惜しくない対象と出会うことにある。その時こそ、命は最も充実した生の喜びを味わい、激しく美しく燃え上がるのである。何に命を懸けるのか、何の為なら死ねるのか。この問いに答えるのが生きることであり、この問いに答えるのが人生である。

死はすべての人間に必ず訪れるものである。しかし、死がいつか必ず来るものと思っている限り、人間は「自然に殺される存在」となる。その、もっと生きたいのに殺されるという気持ちがある限り、死は不安の種であり、そこから逃れることはできない。その不安を脱するには、殺されるという気持ちを乗り超えなければならない。

ハイデッガーは、それを「死を先取する」と表現している。死ぬのを待つのでなく、この為なら俺は「死ねる」という気持ちになったとき、人間にとって死は怖い恐ろしいものでなくなってしまう。自然にやってくる死を先取りして死を決意したとき、不安はなくなり、死ぬ気になればなにも怖いものはなくなると言っている。しかし、今生きている自分が死ねる気になるには、百尺竿頭を踏み出す一大決心が要るが、それを決心させるのは自力ではなく魂である。与えられた生命の根源である、大自然の摂理、宇宙の意志、神と呼んでいるものの配慮である。

私が南方の戦場で、「ここが俺の死に場所だ!この戦いで死ななきゃ死ぬ時はない」と、死を決意した瞬間、死ぬも生きるも気にならなくなった。その時の怖いものは何もない解き放たれた心の自由感は忘れることができない。死を先取りして生きること、命を懸けた生き方をすることによって、人間はぬるま湯につかったような日常性からぱっと飛び出して、本来の自己に与えられた「生きる力」が出現するのである。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2015年7月)より』

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