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Vol.165 百術は一誠に如かず

2015/12/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

前置きとして、最近の語録を総括してみたい。これまで、私が戦後復員して高松の我が家の焼け跡に立ったとき、自分が幽霊ではないか、 生きている自分が不思議に思えたことを何度か話し、「死」とか「魂」のことにもふれてきた。

今も、70年前のことを思い起こし、最近は新聞の死亡欄によく目がいくようになった。どんな人が何の原因で亡くなっているのだろうかと。 殆どの人が70代・80代で90代は稀である。要するに私は、皆より永く生き過ぎているのだ。故に、最近、片足を棺桶に突っ込んでいる自分を、 半幽霊と自称している。それを自覚することで、むしろ自分の現実を見つめた真剣な生き方ができるようになっている。

半幽霊が発表する語録だから、どうか半身の構えで聞いて欲しい。私は、今日一日を最後の日だと思って生きる生き方が、 少しはお役に立っていると思うので、当分生きることを止めるわけにはいかない。誰がなんと言おうと、"生きること"は素晴らしい。 しかもそれは"生かされている"のだから、なおありがたい。以上が語録を振り返り、昨今感じることである。

さて、今月のテーマは「百術は一誠に如かず」である。百のわざ・たくらみ・はかりごとも、一つの「誠」に及ばぬという意味である。 それ程強力な「誠」とはいったい何なのか、人間のどこでつくられるのか。また、なぜ百術に勝るのだろうか。

この世に存在する動物・植物はもとより、凡てが大自然の産物である。人間もその一部であって、 私たちのいのちは"神"すなわち、この大宇宙・大自然の力によって生み出されたものである。 したがって「誠」というのはこのいのちから湧いてくるもので、神の意志を戴しているのである。 「誠」とは辞書に「偽りのない真実」とあるが、強いて言えば、魂の働き、いのちの発露、やむにやまれぬいのちの働きといえる。

自然は合理的ではない。人間もその一部だから、生命は理屈を超えたものであって、そのいのちから湧いてくる「誠」は理屈を超えている。 今日、合理性は正しく、理屈が通っているのは良いことだと多くの人が思っている。しかし、物事の本質は理屈を超えたものであって、合理的ではない。 人間が最終的に求めている愛も、自由も、生き甲斐も、誠も、凡て感じるものであって、理屈で考えるものではないのである。 人間にとって価値あるものは、すべて感じるものである。ところが百術の、わざ・たくらみ・はかりごとは、理性が考え出したものであり、 しかもその理性が不完全であることを知る人は少ない。

私たちが正しいと思っている理性がなぜ不完全で、私たちの規範とならないのか。 その第一は、理性は自分がつくったものだからだ。「オギャー」と生まれた赤ちゃんに理性はなく、 自分が生まれたことすら知らない。2歳・3歳にかけて言葉を覚えることによって、考えることができるようになり、 それが理性の発達を促し、凡てのものを客体として見る能力になる。しかしその能力は、合理的にしか考えられない不完全さを持っている。 したがって、愛・自由・生き甲斐などを、理性で分かろうとするのは不可能なのである。

その理性で考えられた、わざ・たくらみ・はかりごとは、当然別の考えでコロコロ変る弱さを免れない。 しかし「誠」は、愛の力、意志の力、勇気、自然治癒力と同じ、理屈を超えたいのちから湧いてくる強さを持っている。 このように人間には理性に勝るさまざまな能力が備わっているのである。理性さえあれば何でもできると思うのは、 大きな誤りであり、また、理性の不完全を知って初めて、私たちは謙虚になれるのである。

理性が不完全で私たちの規範にならない理由の第二は、「理性は自分が作ったものだから正しくて、 その正しさを主張することはいいことだ」と、妄信していることである。こんにち、対立や戦争、 殺し合いで多くの人が苦しんでいるのを見ても、理性の不完全さを知ることができる。凡て、 理性的な考えの正しさを主張することが原因となっている。

理性でつくられた「術」が不完全で弱く、「誠」はいのちから湧いてくるから強い。 人間にとって価値あるものを求めて生きるためには、まさに「百術は一誠に如かず」である。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2015年9月)より』

航海日誌