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Vol.167 遠慮――遠きを慮る

2016/02/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

遠慮という言葉からすぐ頭に浮かぶのは、私たちが、他人に対して自然に振る舞う控え目な態度であろう。でも、今回のテーマはそうではなくて、「遠きを慮(おもんぱか)る」ことを指している。先の先まで慮る深い考えがなかったなら、差し迫ったことにとらわれ、心配事や悩みに終始してしまう。

私たちが遠くを慮るとは、その到達点、終着駅が死であることを見極めよということである。私たちの先の先は死であると言うと、如何にも消極的、悲観的に聞こえるが、むしろ、逃れられない死を真正面から見つめ、どんな死を迎えればよいかを考える方がよほど積極的である。死があるからこそ、生きることの意味を知り、尊厳を持って生きることができるのである。

人間に死があることは子供でも知っているが、死はこの生きている自分に、襲いかかってくる恐ろしい出来事ぐらいの認識である。大人になれば、死への不安と恐怖から常に避けて通ろうとし、それが苦しみを生んでいることに気付いていない。

私は、死をこんなふうに推量することによって、不安と恐怖を和らげられるのではないかと考えている。すなわち、死は、生に繋がって訪れるものではあるが、生きているところへやってくるのではない。私たちは死ぬ直前までは生きているが、死ぬ時は生きていない。だから、自分が出会うことのない、感知することのできない死を怖がるのはナンセンスである。

また先哲は、「死は人間の眠りと同じである」と、述べている。「死は私たちが、毎夜眠りに入る瞬間、いつ眠ったかを知ることができないのと同じである。私たちが死ぬときは、既に意識がないから、いつ死んだのか知らない間に死んでいけるのである」という。全く同感である。

どんなに説き明かしても、死に対する恐怖は容易に払拭できるものではない。それをなくするただ一つの方法は、自分の命を、自分の持ち物として取り扱わないことである。大抵の人が命は自分が持って生まれたと思っている。それは錯覚であり、命は与えられたから生まれたのである。もし自分が命を持って生まれたのなら、なぜ死期が迫った時、しっかり掴まえていないのか。自分の意志に関係なく命は去っていくではないか。

もし、命を自分の所有と考えて生きている限り、私たちはそれを失うことの恐怖から逃れることはできない。今ある命は自分の所有ではなく与えられたもの、預かりものなのである。命はもとより、財、地位、名誉凡てを、生きている間の預かりものと思えるなら、もう失う自分のものは何もなく、心の解放と真の自由を持つことができる。

今若いし頑健だからといっても、いつ来るかもしれないのが死である。死の訪れは常に不意打ちなのであって、相当の齢まで生きられるのが当然と考えるのは都合のよい錯覚であって、私たちの眼を真実から遠ざけている。人は死を見つめるからこそ、逆に今生きていることがよく見えてくる。死がはっきり見えない時は、生き方もぼんやりしてくる。

自分が死に至る存在であることを受け入れることによって、精神的に自由になれる。それが仏教で云う「悟り」である。死を素直に受容できる人は最も生産的な人であり、凡ての苦悩から解放されるのはもとより、最もよく楽しみ、最も多く悦びを持つことのできる人である。遠くを慮ることによって、命の使い道を見出すことができ、今日ただいまの心配事悩み事も消えてしまうのである。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2015年11月)より』

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