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Vol.168 人間という奇跡を生きる

2016/03/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

今回のテ-マは、人間の存在そのものが奇跡であることを示しており、 また人間の奇跡に満ちた生涯を表徴した言葉でもある。奇跡とは、 私たちの常識では考えも及ばない神秘的な不思議な出来事を言い、 誰もが知る自然の法則を超越した不思議な現象をいう。

では、なぜ人間の存在が奇跡なのか、著名人の言葉を紹介した上で、 私の考えを述べてみたい。京都大学元総長、平沢 興氏は、著書「生と死」の中で、 人間が奇跡の存在であることを次のように述べている。

『かつて私は、今は亡きノーベル賞受賞の湯川秀樹氏との話の中で 「平沢さん、命って不思議なものですね。私は物理学をやり、 物質の不思議に驚いていますが、しかし、考えてみると,命というものになると、 更に次元の高い不思議がありますね」と言われて、 私はその思慮の深さに驚き、且つ感心したのである。

確かに命には、物質とは比較のならぬ、次元の高い種々の不思議がある。 生命の発生の詳細は、いまだによく分からぬが、生命には物質とは異なるいろいろの特性がある。 (1)新しい命を生みだす力があり、(2)また命には種々物質の新陳代謝があり、 (3)新しい命に自らの性質を遺伝する力があり、 (4)さらにその際、同時にある程度変化を与える力などもあるが、こうした性質は物質にはない。

40年間も解剖学を研究して、しみじみ感じることは、研究すればするほど、 いよいよ命は不思議だということである。どうしてこうもうまく出来ているのかという最後の真理は、 とても分からなく、自然の不思議さに驚かされて、ただ頭が下がるだけである。 この瞬間も、知らぬ間に働く内臓のおかげで無事に生きている、いや、生かされているのである。

私はここ数年来、天を拝み、人を拝み、己を拝んで生きている。 天とは最初に命を与えてくれた大自然であり、人とは日々の生活で世話になっている方々である。 己を拝むなどと言うと変に聞こえるかもしれないが、この自分も大自然を通して親から与えられた世にも尊い、 宇宙の最高の存在であることを思うと、拝まずにおれない』

平沢氏は、人間の生命の不思議さに驚き、その発祥の詳細はまだ分かっていないが、 自分に命を与えてくれた大自然の「天」を拝んでいる。拝まずにいられないと語っている。 大自然の配慮であることに気付き、それを感じ取っているからだと思う。人間とは何か、 その全容と不思議さについて考えられたのではなく、直感されているのである。

次に、私の奇跡の体験は、戦場でのことが極めて多い。が、ここでは戦後の 「信じることが人間に奇跡を齎(もたら)す」体験にふれたい。私が仕事を始めて以来、 企業の業績は毎年確実に増大し、直ちに規模拡大の必要に迫られた。その計画は厖大(ぼうだい)なものとなったが、 資金は殆ど銀行融資に頼るしかなかった。その額は現規模からみて余程大きかったためか、 融資を渋って応じてくれなかった。

もし、この融資がなければ今後の発展を断念せざるを得ない。私は融資の条件として、 私個人所有の土地、建物、預貯金を抵当にすることを申し入れた。もともとゼロからの出発だし、 いつでも無一物になれる考えがあったからだ。私の真剣さが通じたのか、 無謀と思える巨額の融資を認めてくれた。 私の一身を委ねたことが信頼を生み、奇跡を齎したと言えよう。

では、なぜ信じることで奇跡が生まれるのだろうか。信じるとは、信じた相手からいかなる報いがあろうとも、 それを受け容れる腹が決まった時始めて信じたと云えるからだ。すなわち、たとえ信じた相手から、裏切られ傷つけられても、 なお信じ続けられる人である。言いかえると、自分の運命を相手に委ねてしまうことである。

信じるのも愛するのも、常識を超えている。キリストの言葉にも、「汝の敵を愛せよ」「右の頬を打たれれば、 左の頬を差し出せ」とある。その常識を超えているところが心に響き、感動を呼び、 奇跡を生んだのである。人からすべてを委ねられれば、それに応えずにおれない気持ちが湧いてきて、 常識では考えられない不思議な行動を生むのである。

もう一つの奇跡は、「タイムレコーダー廃止」がある。遅刻のチェックがない上、遅刻しても賃金が引かれないという自由は、 悪用されるなら企業の存続はおぼつかない。社員を信じ、そのリスクを承知の上で廃止に踏み切ったことが社員に感動を与え、 自主的行動となり、遅刻皆無の奇跡が生まれた。

私は続いて社員の健康づくりを始め、社内にアスレチックジムを設け、運動の奨励とともに献血を提唱した。 「身体が健康であっても、奉仕の心がなければ、真の健康体とは言えない。献血は、心身ともに健康であることの証明である」と 全員の前で説いた。献血の結果を聞いて驚いた。私は少なくとも一割ぐらいと予想していたが、 なんと二割もの参加者があって涙ぐむほど嬉しかった。早速、全員に「会社の利益が増えるより、 献血が増えることの方が嬉しい。皆さんの心身の健康は、会社の健全性を示している」と、感謝の言葉を述べた。

以来、毎年献血が増えて四割近い参加者を見るに至った。おそらく、日本中はおろか世界中でも稀ではないかと思う。 総理大臣賞も受けたが、それよりも、自主的な奉仕の精神が会社の風土・文化となりつつあることは、 どんな大会社にも負けない大きい財産である。私も74歳まで年齢を偽って毎年献血し、率先して範を示した。

信じるということは、勇気がいるのである。信じた相手の前に無防備となり、 捨て身になって我が身を委ねることである。それが相手の感動を呼び起こし、 常識では考えられない不思議な行動を生みだすのである。人は皆、奇跡の存在であると同時に、 人生もまた奇跡の連続と言えるのではないだろうか。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2015年12月)より』

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