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Vol.174 関を超える

2016/09/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

私たちの人生には、越えねばならぬ困難な関門が数多くある。 入学試験、就職、天災地変や不慮の災害、自らの傷害、疾病、そして死がある。 また、自己啓発を目指して自分に課す関(ハードル)もある。

人生における関をどのようにとらえ、超えていくか、その対応次第で人生が創られる。 それを避けるため脇道を抜けるとか、諦めて引き返す安易な道もある。 しかし、困難な道を自力で越えていくことによって、悔いのない人生が創られるのは間違いない。

老年になると誰もが、自分に超えねばならぬ死が近いのを、それとなく感じるようになる。 しかしそれは、今日・明日の差し迫ったことではない、 いずれ来るだろうが当分は大丈夫だろう程度の感覚である。 真剣に自分の死と向き合っていないのは、死は誰も体験したことがないし、 いくら考えても分からないので、誰もが不可解な恐怖を抱えたまま過ごしている。 生涯で最も困難な関である「死」と向き合うことによって、 初めてどう生きるかを知ることができるのではないだろうか。

先ず、私の青年期に戦場で遭った死の恐怖を、どのように超えてきたかを述べてみる。 ラバウル基地の初めの頃は、毎日同じ頃にやってくる空襲を「定期便が来たぞ」と言って、 慣れっこになっていた。B17爆撃機とグラマン戦闘機の100機以上が、連日ラバウル基地に殺到してきていた。 我が戦闘機隊も常時100機近くが一斉に迎撃に飛び上がり、彼我の戦闘機が上空で鎬を削っている間に、 数十機の爆撃機が編隊を組んで現れ、一斉に爆弾を投下していくのが決まりだった。 私はその戦いの凄まじさに、全身の血が湧き立つのを覚えた。

ラバウル基地での死の恐怖は、一日の僅かな時間だけだったが、 遂に、私にも死の恐怖に眠れない夜がやってきた。我が戦闘機隊は人員機材とも急遽サイパン島に移動、 私は昭和19年1月初旬出港の、貨物船海河丸に便乗が決まっていた。

その頃、既にラバウル周辺は、制空、制海権とも米軍の手中にあり、 出港した船が満足に着いた例がないと言われていた。出港前夜、さあて困ったことになったぞ。 沈められるのがわかっている船に乗らなければならないが、船が沈めばどうなるのだろうか、 どうして死ねばいいかを考えていると眠れない。

私はかつて、1万メートルの遠泳を泳ぎ切った経験もあるが、太平洋の真っただ中では、 2昼夜は保つまい。最後には海水をしこたま飲んで窒息死するしかない。 ならば、出征のときに貰った日本刀での切腹、舌噛み切っての死も考えたが、その痛さに耐える自信がなかった。 間もなく夜が明け、乗船の時は刻々迫っている。あのラバウル基地で、 弾に当たって一思いに死ねばよかったと、どれ程思ったかしれない。

いくら考えても納得する死に方が分からず、揚句の果に絶望し、もうどうにでもなれと考えを放棄してしまった。 しかしそれは、暗闇の沼に引きずり込まれて行くような苦しみでしかなかった。 その時ふと、心に閃くものがあった。水中深く潜ってある深さに達すると、失神することを思い出した。 潜るのは得意だったから私は納得できる死に方を得て、泥のように眠った。

船は出港した翌日の昼頃、爆撃機が一機こちらに向かってきた。 船の甲板には避難の場所はどこにもない。えいままよと、デッキに立って睨みつけていた。 やがて豆粒のような爆弾が、鳥の糞のように落ちてくるのが見えた。 さあ当たるかなあと思ったとたんに海水がどっと降ってきた。至近弾だった。 見ると、共に出港した僚船羽黒丸が、船首を上に向けて沈んでいるではないか。

浮いている戦友たちを救い揚げて、再び船はサイパンに向かった。 爆撃で撃ち洩らした船を、そのまま見逃すわけはない、と思っていたら、 翌日の昼頃、見張り員の「雷撃」の大声と同時に、私は甲板上に叩きつけられた。 「魚雷だ」と、体を撫で回してみたがどこも傷していない、 舷側に走りよってみると機関がやられていないのか船は同じ速度で進んでいる。 船腹に空のドラム缶が満載してあり、浮力を保っているのである。

気の早い連中は次々と海に飛び込んでいるが、見る見るうちに遠ざかり、 波間に遠く連なって見えた。まごまごすると二発目の魚雷が来るかもしれないが、 どうせ船腹に大穴を開けられているから沈むのは間違いない。私は長時間の泳ぎに備えて身支度を整え、 おもむろに海に飛び込んだ。太平洋の波は大きかった。 風もないのにそのうねりは、波の頂上にある時しか周囲が見えない程の高低差があった。

私は、いざという時はあの手で死のうと思っているから、余裕を持って大勢いる方に向かって泳いで行った。 赤道直下の海なのか、生ぬるく感じた。何時間経ったのだろうか、 太陽はまだ高かったが、いつの間に現れたのか日本の駆逐艦が、カッターを降ろして私たちを救助してくれている。 嬉しかった。もう潜って死ぬ必要がなくなったが、惜しくも隊員35名を南溟に失った。

私の、死の関を越えてきた経緯を述べたが、一貫して言えるのは、 生きることに無関心、いつも死を前提に考えていたことが、 かえって死の恐怖を感じさせなかったのかと思う。それは戦時中の特異な環境がもたらしたのであって、 現代の平和な時代では考えられないと言うだろう。しかし、死に対する恐怖は、戦時も平時も少しも変わることがないのである。

平時の今でも、私たちは誰もが死を怖がって生に執着し、あらゆる手段を講じて死から逃れようとして苦しみ悩んでいる。 この苦悩から逃れるには、真正面から死をみつめることなしに答えは出てこない。 死をみつめることは同時に生き甲斐を追求することに他ならない。

死は、生に繋がって訪れるが、生きているところへやってくるのではない。 私たちは死ぬ直前まで生きており、死ぬ時は生きていない。だから、 自分の死そのものと対面することはできない。その私たちに感知できない死を怖がるのは、 観念上の死に脅えているだけである。死は、この自然の中に季節の移り変わりがあるのと同様に当然なことである。 老いがあり死があるからこそ、謙虚さを知り、生かされていることに感謝が生まれる。

もし永久に死なない人生があるならば、この世は地獄の苦界となるだろう。 限りある人生だからこそ意義があり、尊いと考えられるのではないか。 この与えられた生涯の時間を無駄にしないよう、活用し尽くすことに気付かされるのである。

死に対する恐怖をなくするただ一つの方法は、自分の命を所有物として取り扱わないことである。 命が与えられたから私たちは生まれたのであって、命を持って生まれたのなら、 自分の意志に関係なく、与えられた命は去ってゆくではないか。

つまり、私たちの命は自分の所有ではない、与えられたもの、 預かりものであると分かることである。生命はもとより、財産、地位、権力などを持つことへの欲望を、 捨てれば捨てるほどそれを失う恐れがなくなる。 もう失うものを何も持っていないからである。そこに完全な心の解放と真の自由を持つことができる。 今ある命はもとより、すべて預かりものと思える時、 初めて「死の恐怖」の関を超え、限られた命を生かしきる、安心立命の境地が与えられるのである。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2016年6月)より』

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