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Vol.175 腹中書あり

2016/10/03

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「腹中書あり」とは、心身を養い、国家を治め整えるに役立つ学問をすること、 安岡正篤師の座右銘「六中観」の言葉である。 しかし、国家を治め整えるなど、私たちには関係ないと思われるが、 この言葉には深い意味が隠されている。 腹中に書を持つとは、自らの学びを深め、生きる上でのゆるぎない指針を腹の中に持つことである。 学んだことを、真に自分のものにするにはどうすればいいのかが問われている。

たとえ国を治める大政治家であろうと、企業の経営者や部課長はもとより、 一家の長たる父親でさえも、言行一致、まず我が身を修めるのが最重点である。 それを表した言葉に、「修身、斉家、治国、平天下」という、儒教の「大学」に示されている一節がある。

天下を平成するには、まず一国を治めることが前提である。 一国を治めるためには、まず一家が整っていなければならない。 一家を整えるには、自らの心身を修めることが先決である。 自分さえ修められずに、どうして一家を整えることができようか。 まず、我が身を統治、管理し、セルフコントロールすることである。

セルフコントロールが容易なら、修身はたやすいのだが、 自分が自分の思うようにならないのが常である。 それを難しくしているのは自我心(エゴ)によると 考えられる。たえず自我心(エゴ)にふり回されているのが、 実は自分だからである。この自我心(エゴ)を 超えることによって、始めて自分を支配下に置き、統治し、管理できる。 言いかえると、己に克つことであるが、自我心(エゴ)を超えるのはとても難しい。

私はかつての戦場で、何度か死に直面したとき、生きることしか念頭になかった。 その自我心(エゴ)丸出しの自分が、死を選ぶことによって、かえって生かされてきた経験がある。 死を受け容れたことが、実は生きる道に繋がっていたのである。 死を受け容れたのは自我心(エゴ)ではない、自己を超えた大いなるものの声、天の声を聞いた魂だった。

幾度かこのような体験を通して、私は魂の存在に目覚めると同時に、 己という自我心(エゴ)に克つには、心の奥にある魂しかないと確信するに至った。 己に克てるのは、魂のみが可能であることを身を持って知るとともに、 それが私の戦後の人生に大きな影響を与えずにはいなかった。

40歳を過ぎた頃、心身を鍛えるために、毎朝5時起床、 2キロのジョギング、庭のプールで泳ぐことを自分に課した。 もちろん年中無休である。数年後、物足りなくなって、元日には庵治の海岸で、 三日に大的場の海で泳ぐのを正月の年中行事にした。 なんと、それを93歳まで続けることができたのである。 我ながらよくやったとほめてやりたい。

側から見ると、苦行とも見える毎朝の行事は、実は、己に克つことができた喜びに支えられていたのである。 刺すような冷たい水に身を晒しても、平気でいられる自分を誇らしく思えるのは、何よりも大きな喜びだった。 それは生かされている命(魂)から湧き出た感動だった。

毎朝の厳しい行事を通じて、私は苦しみが喜びに変えられることを学ぶと同時に、 苦難こそが、人間を成長進歩させてくれる原動力であることを確信できた。 以来、無為安逸に過ごすよりも、むしろ苦難を好み求めるようになり、苦の中に喜びが隠されているのを 知ることができた。

かくて私は、戦場で死中に活を見出したことから、「腹中の書」といえる魂の存在に目覚め、 それが96歳の今日まで貫かれている。生かされている命(魂)に、日々感謝できるのは最高の幸せと云える。 同時に、戦後の実践の中で己に克つ道を学び、苦が喜びに変わる発見が、私の人生を悔いない生き方に導いて くれたに違いない。総じて「腹中書あり」と言えないだろうか。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2016年7月)より』

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