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Vol.176 思いを伝承す

2016/11/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

今月のテーマ「思いを伝承する」とは、「古くからの考え方を受け継いで、自分の理想や願望・夢などを後世に伝えること」と辞書にある。それは後々の世までも重用され、語り継がれるほどのものでなければならない。私がどのように「思いを伝承」してきたかを振り返ってみたい。

私が伝承してきた「思い」は、私の理想・願望・夢でもあり、大きく分けて二つある。一つは企業の経営に携わっていた約30年の間、社員に対する施策と私の言動がそれに匹敵する。もう一つは、これまで木鶏クラブで語ってきたことである。

私は「生きること」と「働くこと」の二つを一番大事なことと考えて伝承してきた。生きることも働くこともその根本を探れば、私たちは何のために生まれてきたのか、そして何のために生きていこうとしているのかである。ところが、大抵の人はこれまで何となく生きてきて、そんなことを考えてもみなかったし、必要を感じなかったという。しかし、自分のかけがえのない人生を、悔いのない充実したものとするには、生きる意味をハッキリしなくてはならない。

なぜならば、人間は動物と違って、ただ単に生きているだけでは満足できない。たとえ、いかに物質的に恵まれ、何不自由なく過ごせても、心の豊かさや充実感や安定は得られない。何のために生まれて、何のために生きるのかが分からないままでは、空しさ、寂しさ、つまらなさを感じるのではないだろうか。つまり、人間は誰でも生きる張り合いがどこにも見当たらないことに耐えられないように造られている。

動物は生きる意味も死ぬ意味も知らず、人間だけが生きる意味を知ろうとし、自分に死があることを知っている。だから生きていることが貴重に思えて、人生を何のために費やすべきかを求めようとする。それがハッキリすれば、生き甲斐はそこから感じ取れる筈である。しかし、それを分かり易く応えてくれる人は多くはいない。生きる意味や生き甲斐は、知識や技術のように教えられるものではない。自ら学びとり、気づくことによってのみ得られるものだからである。

言い換えると、人間は誰ひとり「何のために」という目的意識を持って生まれてきた者はいない。私たちは自分の意志で生まれたものでもなく、自分の意志で生きているとはいえない。その証拠に、私たちが眠っている間の呼吸や心臓の働きを勝手に止めたり動かしたりはできない。即ち、私たちの生命は与えられた命であり、何かによって生かされているとしか言いようがない。

また、人間には他の生物と違った本能を与えられており、その一つは良いことにも悪いことにも無限に進むことのできる「自由」である。つまり、どんな大悪人にも大聖人にもなれる自由が与えられている。だからこそ、私たちは絶えずその選択の基準となる「人間は如何に生きるべきか」という問いを持ち続けなければならない。そういう自らへの問いを持つことによって、初めて人間は人間らしく生きることができるのだともいえる。

つまるところ、何のために生きるかは、与えられ、しかも生かされている命を最大限に活かすことに他ならない。自分に備わった資質、天分、能力を活かすことであり、それらを他に役だたせることが生き甲斐の源泉となる。「どう生きるか」ということは、「どう役立つか」であり、生きる意味も働く意味も、自分をどう役立たせるかにある。

そこから、何のために生き、何のために働くのかが、自ずと導き出されてくるのではないだろうか。働くということは人間にとってどういう意味があるかを考えると、人生を生きる意味と少しも違わないことに気がつく。生きることと働くことは同意語といえる。

働くことには次のような深い意味が含まれている。
  1.人間が生きていく上で、休息や遊び(ゆとり)が必要不可欠であると同様に、働くということは
    人間にとってなくてはならない自然の営みである。
  2.人間は働くことを通じて自らの能力を発揮することができ、同時にそれが自己実現の喜びとなる。
  3.人間は働くことによって成長し進歩すると同時に、自らの可能性を追求することができる。
  4.人間は働くことによってのみ、社会の連帯の中に生きることができる。その働きが社会に役だって
    いるという自覚と誇りから、さらに役立ちたいという使命感が生まれ、生き甲斐の源泉となる。

働くということが、このような深い意味を持っているにも拘わらず、なぜ喜びとなったり苦しみとなるのか。私たちにとって最も尊い命の働きは、神聖にして何ものにも換えることのできない、また換えてはならないものである。苦しみとなるのは、その尊い命の働きが、単に生活の糧を得るための手段とするときに奴隷的労働と化すからではないだろうか。報酬を得るためにやむを得ず働かねばならないと考えるところに苦しみが生じるのである。このように、働くことの意味をどう考えるかによって、その人を苦しみの多い人生とするか、喜びに溢れるものとするかが決まる。

私は、何のために生き、何のために働くのかの思索とともに、この生かされた生命を最大限に活かすことに思いを致し、それを伝承してきた。十分に言い尽くせないが、一人でも多くの人たちに伝わり、素晴らしい人生の創造に役立つならば、これに勝る幸いはない。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2016年8月)より』

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