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Vol.177 恩を知り、恩に報いる

2016/12/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「恩を知り、恩に報いる」ことの大切さは、両親・祖父母・教師から教えられてきた。だから、人から受けた親切や情け・恩情を有難く思い、感謝の気持ちを示すことは、人として恩に報いる当然の道と誰もが思っている。

しかし、私たちは普段、恩を受けていながら、気付かずにいることが多いのではないだろうか。それは受けた恩情や恩愛を当然と思い、感謝の念も起きていないことが起因している。私自身も自惚れや傲慢のため、受けた恩に気付かぬままにいるのではないかと反省している。

私には、大きな恩が二つある。その一つは、私が戦争と平和の時代をはさみ、日本という国に生を受け、今も生かされているという天の配剤に対する恩である。二つ目は、父の進取の気性と母の温和な気質を受け継ぎ、素晴らしい両親に育てられた、感謝して余りある恩恵である。

なぜ、私がこのような当たり前のことを、これほどまでに嬉しいと思うかといえば、三年余の戦場体験から得た人生観からだと思う。特に、天恩を知るきっかけになった、ペリリュー島とフィリピンでの体験を述べる。

私は戦闘機隊の一員として、ラバウル、サイパンで戦ってきたが、米国の圧倒的物量に押されて次第に戦線が縮小され、我が戦闘機隊はペリリュ―島に後退した。昭和19年3月末、敵の機動部隊に急襲され、二日二晩の戦闘で部隊は壊滅し、多くの機材と兵員を失った。抵抗力を無くした島に、何時敵前上陸されても不思議ではない状況だった。

だから「この島が俺の死に場所だ」と死を覚悟していたが、内地で戦闘機を受領してフィリピンへ行けという突然の指示があった。私は玉砕が迫る島を後にして二式大艇でパラオを飛び立った。8時間を経た頃、「日本に着いたぞ」の声に機上から見た房総半島には、桜がちらほら咲いているではないか。その時の感動は、到底言葉にすることができない。私は生きて二度と見ることはないと思っていた祖国日本に再び帰ることができた嬉しさを、昨日のことのように覚えている。

受領した戦闘機数十機とともに、先導する双発爆撃機でフィリピンに着き、無事大役を果たしたと思った。ところが、ペリリュー島を引き上げてフィリピンに向かった本隊は、途中、魚雷を受けて沈んだことを知らされた。思えば、ラバウル以来闘い続けてきた私が生き残ったのは奇跡であり、なんと天恩に恵まれた男かとしみじみ思わずにはいられなかった。

フィリピンでは、世界史にも残る、戦闘機に250キロの爆弾を抱かせ、機もろとも敵艦に突っ込む、特別攻撃隊を我が隊から出すことになった。当日水盃を交わした特攻隊員が、操縦席から我々に手を振って出撃して往くのを見送った。その時の彼らの顔は、晴れ晴れとして、しかも凛としており、彼らは人間ではない、神の化身ではないかと思った。私と同じ若者が、祖国の危機を救わんと進んで命を捧げようとする姿に、震えるような感動を覚えた。私も彼らとともにフィリピンの土になろうと心に誓った。振り返ってみて、命を無くしても惜しくはないと思えるようになっていた。

戦闘機を特攻に使ってしまった昭和20年1月、私に内地への転勤命令がもたらされた。私は、万を数える中から選ばれ、少ない内地向けの飛行便で、又も祖国日本の土を踏むことができた。いったい誰がこのように私を引きずりまわし、生かし続けてきたのだろうか。どう考えても人間業ではない、自分を超えた、人知の及ばない大いなるものの力、天の配剤であるとしか思えなかった。

誰もが、自分が生きているのは当たり前のことで、誰の恩恵も受けず、自力で生きていると思っている。しかし、私は戦場で何度も生死の境を越えられた体験から、自分が生きているのは不思議であり、奇跡の出来事であると確信している。97歳の今日があり、私がオプティミストになったのも当然である。だから天恩に感謝し、生きているだけで有難いと感じられるのである。これこそ、究極の幸せではないだろうか。。

次に述べる父母の恩は、天恩とは異質の文句なしの大恩である。しかし、親子の関係のなかでは、その恩恵を当然のものとして把握しきれないきらいがあるが、記憶にある、父と母の愛を感じたエピソードを述べてみる。

私が小学校を終える頃、父はどこで調べたのか、大阪府立西野田職工学校への入学を勧めた。父はその頃、小さな溶接工場を営み、私をその後継者に育てようとしたらしいが、県内には機械科のある工業学校がなかった。私は、職工という名が気になったが、高中(香川県立高松高等学校の前身)より難関だと聞いて受験し、8倍の競争率の中を入学できた。しかし、13歳の私は親元を離れての下宿生活に、一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。

その不安を癒してくれたのが母からの便りだった。いつも葉書一面に細かい字が、愛情こもった励ましの言葉で埋め尽くされていた。それがどんなに私の胸にしみ込んだか計り知れないほどで、いつもその葉書を抱いて、母のぬくもりを感じながら眠った。その頃、母が11歳を頭に3人の弟妹を抱えながら、どのように時間を工面して便りを送り続けてくれたのかと、その恩愛に報いていないことが悔やまれてならない。

父への恩は、我が子を育ててみて初めて分かったことである。13歳の私を独りで大阪に行かせた父の英断が、私の自主独立の気概を培い、生涯の指針となっている。父の深謀遠慮の決断に感謝してやまない。

次に両親への恩愛を深く心に刻んだ出来事がある。昭和20年3月、私は宮崎航空基地で負傷し、別府の海軍病院に運ばれた。知らせを受けた両親は、取る物も取りあえず、汽車と汽船を乗り継いで、米潜水艦の出没が噂される豊後水道を渡って、面会に来てくれた。しかも、配給制の乏しい中を工面して、好物の「おはぎ」を重箱に持参していた。

その夜、外泊が許され、宿では私を真ん中にして親子3人並んで眠った。私は物心がついて以来、親に添い寝してもらったのは初めてで、両親の愛の深さを肌身に感じることができた。親の愛は広大無辺で、言葉では言い尽くせないばかりか、報いたいときに親はもういない。慙愧(ざんき)に堪えない。

私たちは敗戦で凡てを失ったが、いまや世界第二の経済大国を作り上げ、物質的には不自由ない生活を営むことができている。しかし、求める心が私たちを貧しくさせている。今ある与えられた恵みに感謝し、恩愛に報いる豊かな心の持ち主になろう。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2016年9月)より』

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