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Vol.178 人生の要訣

2017/01/05

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「人生の要訣(ようけつ)」とは、私たちが人生を生きる上での、肝要な秘訣や奥義を問うている。齢(よわい)96、人生の終わりを迎える準備に追われる昨今、自らの人生をふりかえりながら、今回の問いに応えてみたい。

私たちは一日中、何らかの行動(無為も行動の一つ)をしながら過ごしているが、その行動は、私たちの心を突き動かす衝動に促されている場合が殆どである。だが、その衝動に駆られた行動の積み重ねが、実は人生を作っていることに気付く人は稀である。だとすれば、この衝動がどうして起こるかが分かれば、人生の要訣を知ることができるのではないだろうか。

衝動が発生するのは主として自我心からである。自我心は、生まれつき持っている本能と理性を併せて自分が作ったものであるが、この二つの能力には大きな欠陥を含んでいる。本能は、生命の保護と存続の使命を持ち、強力なのだが暴走しがちになり、自分のことしか考えない欠点を持つ。理性は、言葉で表したい自分の考えなのだが、合理的にしか考えられず、感性とは、無関係の不完全な能力である。この本能と理性を組み合わせて作ったのが自我心なので、不完全であり、周囲から嫌われるエゴの塊といえる。

また、世の中には合理的に説明できない大切なことが一杯ある。例えば、愛するとか信じることなど、人間にとって大事なことは凡て合理的ではなく、言葉での表現が困難なことが多い。故に、この問題についても自我心での対応は不適切なのである。その自我心から湧きでた衝動を、自我心で処理できるはずがないのであれば、どうすればよいのだろうか。

この衝動について、ヴィクトール・フランクル博士は、
「人間にはもともと、本能的な衝動と、倫理的な衝動を併せ持っている。私たちが生きている間、この衝動は消えることはない。ただ問題は、私たちがこの衝動に支配され、衝動に駆られるままになっていることである。その衝動を行動に移すかどうかを選択できるのは、精神的人格しかない。人格は、常に衝動を自分に順応させ、統合・支配している。
人格は単に衝動を選択するだけでなく、その衝動が真理にかなうものならば、全身全霊を傾けてその境遇に飛び込んで行かせる力を持っている。つまり、人格はまた、自分の内面的な状況である素質・性格に対しても、外面的ないかなる過酷な状況に遭っても、それに従うか抗うかの決断を下す、選択の自由を持っている。この人格の事物を超越した能力は、自分自身をも超越する力を持っており、そのとき、超越する『私』と、超越される『私』とは明らかに判別されている。その超越する『私』は間違いなく精神的人格であり、それは『良心』の発露であり、『魂』の働きである。」と述べている。つまり、いかなる衝動があろうと、精神的人格で採否を選択した上、行動に移せばよいという。

私たちは何かをした後で、「良心に恥じる」という思いを持つことがある。それは、自分がした行為が、良心に照らして恥ずかしいと気付いたからである。この時、恥じる行為をした自分と、それを恥と思う自分の二人の自分がいることになる。どちらも自分なのだが、本当の自分はどれなのか。

いうまでもなく、後者の精神的人格であるのは明らかである。つまり、真実の自己は、「良心」と「魂」によって培われた精神的人格の持ち主であると考えられる。かつての特攻隊の勇士も、祖国を救う大義を精神的人格が深く認識したからこそ、自己を超越し、進んで死地に赴くことができたといえる。私が南方の戦場で、幾度か死を受容できたのも意志の力ではなく、「魂」の働きによるのだった。

問題は、「魂」はどこからきて、どこにあるのかである。京都大学名誉教授の河合隼雄先生は「机がそこにあると同じように、魂があるのではない。証明はできないが、あると考えた方が理解しやすいのだ」と述べている。この世に存在する生命あるものは、植物も動物も凡て大自然の産物であり、人間もその一部である。それは同時に、私たちの生命は大自然の配慮、宇宙の意志を体してこの世に生を受けていると考えられる。私たちの生命は、宇宙の生成発展の意志を受け継いでいるのである。

その生命の中に、「魂」が含まれているのはいうまでもない。私たちが一生、向上心や反省する気持ちを失うことがないのを見ても分かる。生命が尽きるとき「魂」はどうなるのかを心配する人もいるが、「魂」は生成発展の意志を体して不生不死であり、肉体は滅びても永遠に生き続ける。それを証明できないが、「魂」は大自然へ里帰りし、霊魂と名付け、現在でも霊能者と交信している。そしてまた、この世に生まれるのだと考えた方が、安心して生きられ、死ねるのではないだろうか。死んでみて、もし違っていてももともとだし,ほんとだったらもうけものである。

人生の要訣とは、人生をつくる日々の衝動を選択している、精神的人格を培うことに他ならない。そのためには、「己を知る」ことが先決であると考え、「魂」について探り、「私とは何か」「真実の自己とは何か」を思索してきた。しかし、それを困窮するようになった発端は、私が生かされている奇跡の存在に気づいたことによる。それらを通して、今まで人生の要訣をこの場で示してきたといえるのではないだろうか。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2016年10月)より』

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