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Vol.179 闘魂

2017/02/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

闘魂とは、あくまで闘おうとする強い意気込みのことである。理想や目的に向かって、怯まず挫けず挑戦し続ける強い意志を言う。また、いっときの勝利を目指すのでなく、どこまでも続けて止まない強い精神力のことである。私が海軍で身につけたシーマンシップ「負けじ魂」と相通じる。

「魂」については、これまで度々述べてきたが、なぜ魂がそれほど強い力を発揮できるのだろうか。魂が働くときは、すべてに命が懸っており、命懸けでなければならない時にしか働かないからである。

私たちは通常、魂、心、精神などの言葉を、「心」と総称して使っているが、個々についての違いを知る人は稀である。私も、正確に理解しているとは言えないが、私の考えを述べてみる。魂とは辞書に、「肉体に宿って、心の働きを司ると考えられる」とあるように、魂は心の統率者であり、心を支配する力を持つ主従の関係である。これが、魂が心と大きく違っている点で、良心、まごころ、とも言い、目的実現の為の強い意志、すなわち闘魂を作る。

筑波大学名誉教授の村上和雄先生は「魂の存在を信じる」と題して、「科学的な証明はできないが、魂というものを想定しなければ、私というものが説明できない。魂は、心と体をつなぎ、心の支柱となっている気がする。おそらく身体と心は消えても、魂は消えない。どこへ行くのかといえば、サムシング・グレート(名前はないが、偉大なる生命源)のところへ帰って行く。サムシング・グレートは、宇宙と太陽と地球を作り、生物すべてを作った親だから、魂もサムシング・グレートから生まれたと考えられる。私たちの魂は死んだらそこへ帰って行き、また人の体を借りて地球上に生きることになるのではないか。いわゆる輪廻転生である」と述べられている。

心の働きには、魂と違った働きがあると私は考えている。物事を認識し、それを記憶する働きがあり、また、感じることによって、快・不快、喜怒哀楽の感情を起こす。さらに、考えるという論理的思考から、意思を作るが、合理的にしか考えられない欠点を持つ。小我、エゴとも呼び、魂の支配を嫌い、私たちの進歩向上を妨げている。故に誰もが、エゴを無くしたいと思うだろうが、エゴが無くなるともう人間ではなく仏になってしまう。エゴは生きていく上で無くてはならぬ道具であって、それをうまく使いこなすのが魂の役なのである。

私が、南方の戦場で初めて魂の偉大さを知った体験を述べてみたい。私は「この戦いで私が生き残ることは万が一もない、いずれ近いうちに死ぬことになるだろう」と密かに考えていた。その時、心の奥から「どうせ生きられないのなら、びくびくせずに潔く死ね。祖国と家族の平安の為に、一命を捧げるのは男子の本懐ではないか」という声が聞こえてきた。私はそれを期にすっぱり、生きるのを断念することができた。その後の怖れるものが何もない、自由で伸び伸びとした解放された心境は今でも忘れることができない。

三年余、ラバウル、サイパン、ペリリュー、フイリピンの各戦場を、死を怖れることなく駆け巡ったが、何度も死ぬ目に遭いながら、私は生きていた。否。生かされていたのである。この奇跡の出来事は、ラバウルで聞いた魂の声によるとしか言いようがない。戦後、生かされた命を無駄にしては相済まない、「命を何に費やすべきか」を考えずにはいられなかった。私の人生の目的となった社会貢献への闘魂であった。

魂の問題は戦場での生死だけに限らず、むしろ、今日の方が重要な課題ではないかと思う。例えば、信じるとか愛するということも、自分の運命を委ねることによってのみ成就するからだ。魂から発する命を懸けた行為には、思わぬ結果を生みだす力が秘められている。

心と魂の違いは、恋と愛の違いを見ればよく分かる。恋は自然発生的で、ある年頃になると誰でも努力しないでもできる。相手を慕う気持ちが高じて、相手とともにいたいという思いから恋心が生まれてくる。それに比し、愛は自然では起こり得ず、相手を良かれと思う結実が、決断と努力を必要とする。自分の運命を相手に委ねてもよいという決断であって、この決断がないのは虚偽の愛である。

愛は、自分の一身を相手に委ねる、命を懸けた魂の決断によってのみ行われるものである。愛は、ギブ・アンド・テイクではない、与えることのみという理屈を超えた思想である。故に、論理的にしか考えられない心から愛が生まれることはない。愛には努力がいるが言葉は不要である。テレビの画面で「愛している」を連呼しているのは、真実の愛らしく糊塗(こと)しているに過ぎない。

先月も述べたように、生まれたときには心は空っぽで、中身は生まれてから、本能と理性が協力して作ったもので、欠点を持っている。が、生きるためには必要な道具で、通常の社会生活には心の働きだけで事足りると考えられている。ところが世の中の多くの人は、理屈通りでないこと、自分の思いどおりにならないことで苦しみ悩んでいる。それは実は、本能と理性で作られた道具に振り回されているからで、これを解決するには、心でなく魂によるしかない。

魂は、大いなるもの、大自然の意志により、宇宙の意志を呈して、生命とともにこの世に生を与えられたのである。だから魂は、命を懸けての働きをするので、心の持つ諸問題を解決するとともに、奇跡をも生みだす。心は自分が作ったもの、魂は天から授かったものという違いを認めないわけにはいかない。

心と魂という課題に、私の浅薄な考えを述べてみた。私の人生が、魂の目覚めによる闘魂によって創られたのはまちがいない。素晴らしい人生にする為にも、心の奥の魂の声に耳を傾け、怯まず挫けず挑戦し続けようではないか。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2016年11月)より』

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