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Vol.181 青雲の志

2017/04/03

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「青雲の志」とは、「社会的に高い地位に就いて、有名になるのを目指すこと」と辞書にある。しかし、私にとってはこの解釈ではいささか物足りない。私の思い描く「青雲の志」について述べてみたい。

私たちは人生の途上の折々に、必ず目的や目標、願望を持って生きている。青年時代に持つそれらを「青雲の志」というが、私が考える「青雲の志」とは、その都度の目的や目標、願望ではない。それは、死をも見据えた人生の究極の、生涯を貫いた目的を持っていることである。死をも含めた目的が裏打ちされてなければ、「青雲の志」は絵に描いた餅に過ぎないといえる。

誰しも、死が人生の目的になっているとは考えないだろうし、死は生きることを否定する消極的な悪と捉えている。しかし、私たちは生まれたその日から死に向かって生きている存在である。だから、死を見つめて生きることは、この命を何のために使うかを考える契機となるうえに、最も積極的な生き方を創る原動力になる。すなわち、「このためなら死ねる」という、命から湧き上がってくるものが、「青雲の志」の核となっていなければならない。

人は青年時代に、理想像を表した明確な「青雲の志」を心に持ち、それに向かっての努力が、その人の運命を創るといっても過言ではない。なるべく若い時期に、心の情熱を燃やし取り組むことが、その後に際会(さいかい)するいかなる悲運や困難にも、必ず大きな救いの力となる。

大層分かったようなことを述べたが、「あなたは『青雲の志』をどのように考えているのか」と問われるならばこう答えたい。「私たちは宇宙大生命の不可思議な働きによって、今、ここに、生かされて生きている。このことに先ず感謝し、私たちに与えられた資質、天分を精一杯生かすことであり、それは他に役立つことによってのみ生かされる。故に、人に役立つ人間、人に必要とされる人間になることである」と。

人に役立つとは、報いを考えない愛の行為だから、理性の合理的考えから生まれることはない。人に尽くすことができる人は、与えることが減損ではなく、むしろ心が豊かになる事を知っている人といえる。

私たちには、命より大切なものが二つある。一つは、心から愛せるものの存在であり、もう一つは、人生を賭けても悔いない志を持つことである。そのために生き、命を使うのであり、そこに人生における最高の喜びが出現する。なぜ、この二つが命より大切なのだろうか。

人間は「愛」と「志」のためには、進んで命を捧げることができるからである。「愛」と「志」が、死を支配できるのを、私は身を持って会得した。南方の戦場で、いずれ近い内に死は免れないだろうと悶々とする中で、「祖国や家族を救うために、一命を捧げることは男子の本懐ではないか、びくびくせずに思い切って死ね」という声が心の奥から聞こえてきた。躊躇なく腹を決めた。その時の、死を超越できた解放感と自由な心境は、今でも鮮明に覚えている。

死を超越するとは、万人が渇望していることであるが、それは、時間の経過によって死に至るのを待つのではなく、「そのためにいつでも死ねる」と覚悟することによってなされる。すなわち、時間によって死を待つ受け身の存在から、積極的に死ねる強い存在となる。そこには、いつ死んでもいい、いつまで生きてもいいという、不老不死の境涯(きょうがい)が生まれ、人生は永遠の青春となる。

大宇宙の意志によって私たちに与えられた「愛」と「志」は、命を支配し、人生を創造する大切なものである。故に「青雲の志」は、「愛」と「志」を核としたものでなければ本物とはならない。これが、私の思い描く「青雲の志」である。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2017年1月)より』

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