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Vol.194 「天我が材を生ずる必ず用あり」

2018/05/07

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「天我が材を生ずる必ず用あり」とは、天が自分という人間をこの世に生んだのには必ず用、すなわち使命があるという故事成語である。だが、私たちは使命を知って生を受けるのではない。青年期になって、自分の使命を思考する人が多いのではないだろうか。

私も幼いころ、両親の教えや学習を通じて、世のため、人のために尽くすべきと教わった。しかし、それは漠然として「そうありたい」という願望に留まるもので、自分の一生を費やすべき使命というものではなかった。ところが幸いにも、心底から「天我が材を生ずる必ず用あり」を感得する機会に恵まれた。

それは、終戦で南方の戦場から三年ぶりに帰還、郷里の我が家に辿り着いたときのことである。市街地は見るも無惨、爆撃で一望が瓦礫の原と化しており、焼け残った2、3のビルと沖の島々がすぐ近くに見えた。変わり果てた我が家の姿に呆然と立ち尽くしたとき、私は今、夢の中にいるのではないか、あの南の戦場でとっくに死んでいるはずの私が、こうして焼け跡に立っているのは、もしかすると幽霊ではないかと思った。

しかし、数知れぬほど死ぬ目に遭遇しながらも生きられたのは、何か大いなるもの(天、宇宙の意志)によって、生かされてきたと気づき、感動に打ち震えた。「今あるこの命は、新しく天が与えてくれた」と思うことで、自分を取り戻すことができた。この新しい命を粗末にしては相済まない、新しい命を最大限に生かすことが、その恩に報いることだと考えた。「他に役立つことによって、命は生かされる」が、天啓のように私の心を貫いた。それが私の人生観の礎になっている。

私たちがこの世に生まれたからには、何かやるべきこと、役割、使命がある。すなわち、いったい、何のために生まれたのか、人生の目的は何かが問われている。これは、自分の一生を左右する大問題で、一朝一夕に答えられるものではない。だからといって、成り行き任せの生き方でよいとは誰も思わない。人間は、生きる張り合いがどこにも見当たらないことに、耐えられないようにつくられている。

どうすれば、生き甲斐を持つことができるのだろうか。私の僅かな体験の中から述べるなら、まず、他からとり入れたもの(例えば先哲の教えなど)は、いかに素晴らしい内容であっても借りものである。また、自分の理性で考え論理的に組み立てたものは、どこを突いても万全であろうと、生き甲斐にはなり得ない。

なぜなら、人間にとって最も大切な愛、信頼、生き甲斐などは、理屈ではなく、言葉にならず、非論理的なものだからである。例えば「汝の敵を愛せよ」はキリストの言葉だが、「汝の敵をやっつけろ」の方が、筋が通っていると思うだろう。また「あなたを愛している」と、言葉にすればするほど空虚になるのをみても分かる。愛、信頼、生き甲斐は、理性を超えた、感動の中から気づくのではないだろうか。

私たちが、心を揺り動かされるような場面に遭遇したとき、感動とともにハッと「気づく」ことがある。「気づき」は、考えたこともない新しい発見であり、その発見がまた感動を呼び、新しい発想や価値観が身に付いていく。だから、感動による「気づき」無しに、ものごとの真髄を掴むのは不可能であろう。

感動による「気づき」はどうして起こるのか。それは、今までに学んだことと、それを裏づける自分自身の体験から生まれるのであって、そうした積み重ね無しに「気づく」ことはない。生き甲斐は、理性の合理的な考えではなくて、感動による「気づき」によってつくられる。そのためには、真実を掴む感性を常に研ぎ澄まさねばならない。今振り返ると、私の人生は、自分を越えた何かの力が働いていたと思わずにはいられない。

「天我が材を生ずる必ず用あり」の用、使命、言い換えれば生き甲斐について、私の考えを述べた。前述したように、戦後、私は「今あるのは、自分が生きているのではなく生かされているのだ」と気づいたのが礎となっている。以来今日まで、生きていることがありがたいと感謝して過ごせるようになった私は、なんという幸せ者かと思う。同時に、その恩に報いることが、終生の生きる指針になった。少ない残余の生を、与えられた用、役割、使命を果たすために過ごしたい。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2018年3月)より』

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