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Vol.204 「国家百年の計」

2019/03/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

国家百年の計という言葉は、もともと人を育てる思想として用いられていたが、国家といった厖大(ぼうだい)でしかも重大な問題で使われるようになっている。国家の問題は政治家の役目であって、私たちは選挙によって、国の将来を決めるにふさわしい人を選び、その職務を委託している。しかしながら、政治家も人であり、そういう意味では「教育こそが国家百年の大計」といえよう。私たちにとって大事なのは、自らも含めて人間として深め、高めていくことである。それには、生涯を通して人生をどう生きたいかを、計画としてとらえていくべきではないだろうか。

難しく考える必要はない。私たちの貴重な生涯を、何に費やしたいかによって、生きる目的がおのずと決まってくる。まず、その目的を達成するためにはどの方向に進むべきかを決めねばならない。目的と方針が決まるとそれに沿った生涯の具体的計画(いつ、どこで、何を、どれだけ)を定めることができる。ところが、計画に従って実行していくなかで、思い通りにいかないことが多いのに気がつく。

計画がどれほど実態に即した素晴らしいものであっても、計画通りにいかない最大の原因は、運命によって予期した環境が一変することにある。運命には、自然災害や事故、病気や失敗などあるが、対応の仕方によって、どのようにでも変えられるのを知る人は少ない。私の人生は運命に叩かれ、鍛えられ苦しむことが無かったら、形成できなかったといえる。海軍に入隊初期の、理不尽と思われた体罰による訓練も、進んで受け入れることによって精神的に大きく成長できた。続いて過ごした過酷な戦場の体験からも、運命をどう受け入ればよいかを体得することができた。

運命をどう受け入れるか、その受け入れ方と対処の仕方によって、人生にプラスにもマイナスにもできる。運命を、動かすことができないものと見るか、どのようにでも動かせると考えるかで、人生は大きく変えられる。もし運命には指一本差させないものであるなら、私たちは運命に操られるロボットと少しも違わないことになる。そこには自由も主体性もなく、創造性も生まれない。平成という年号を奏上した国学者、安岡正篤先生は、「運命というものは、天のなすものであると共に、また自らつくるものである」と述べている。

運命はその素材を与えているだけであって、私たちの対応の仕方でプラスにもマイナスにもすることができる。どんな理不尽な運命であっても、すべて自分にとって必要だったことのように受け入れるのである。例え好ましくない、避けたいと思う運命ほど貴重な教訓を含んでおり、好ましい運命には、得るより失うものが多いことを誰もが経験している。わが身に起こる出来事に無駄なものはひとつもない、すべて必要だから与えられたのだと受け取るならば、人間として大きく成長できるのではないか。

不運を感謝できるようになれば大したものだ。「失敗をした。ああ、有り難い、自分を成長させるために神仏がこの失敗を与えてくれた」と、それを糧にして成長できると考えるようになる。従って、すべてが自分の栄養となり、精神的な成長をもたらす。人生には不運も幸運も存在しなくなり、運命をそのまま受け入れて、自らの成長の糧にするようになる。

言い換えると、私たちは運命によってつくられるとともに、自らの運命をつくる存在である。西田幾多郎著「善の研究」によれば、「環境は人をつくるものであるが、同時に人は環境をつくり、環境は人によってつくられる」とある。私のこれまでの人生を振り返ってみても、運命という環境によって自らがつくられたと同時に、自らの環境をつくり、環境が運命をつくってきたといえる。「人生百年の計」は、生涯を何に費やすか、生きる目的をもって、わが身に起こる運命のすべてを肯定し、それを糧にして自らを高めて運命をつくっていくことではないか。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2019年1月)より』

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