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Vol.206 「志ある者、事(こと)竟(つい)に成る」

2019/05/07

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

固い志を持つ者は、必ずその志を成し遂げる。つまり、志をしっかり持てば、必ずその志を達成できるという。そんなにうまく事が運ぶとは思えないが、志と取り組み方次第であろう。では、何がそれを可能にするだろうか。

昔から三日坊主という言葉があるように、何か良い習慣を身につけ、悪い習慣を止めたいと決心をして取り組んでも、いつのまにか尻すぼみになることが多い。「なんて俺は意志が弱いのだろう」と反省し、自分にむち打つが、やはり元の木阿弥になってしまっている。

これはそもそも、身体と同様に、弱い意志力も叩いて鍛えれば強くなるという考え方に大きな錯誤がある。なぜなら、身体と同じように、意志という形があるわけではないから、身体を鍛えるように意志をむち打ち鍛えることはできない。

問題は「意志や意欲」が自分の何処から生み出されるかに関係があるように思う。つまり、出処如何が「三日坊主」になるか「やり遂げられる」かの分かれ道となる。それは、「心」から出る意欲と「魂」から出る意志の二つがあるからではないか。心から出る意欲は、願望や欲求、希望を満たす気持ちをいい、魂から出る意志は、命を懸けてもやり通す決意をいう。

なぜ、心から出る意欲が弱いのか。心はそもそも、生まれた時には無かった。二、三歳頃から言葉を覚え、言葉を組み合わせることによって考えるようになり、心が構成されていった。これが理性の始まりで、言葉は合理的につくられ、理屈に合うことしか通用しない。ところが、世の中の大事なことは言葉に表せないものが多い。心から出る意欲が弱いのは、自分がつくったもので変わりやすく、言葉の不完全さを背負っているからである。

また、私たちは自分で意識できる「心」というものが、精神作用のすべてだと思い込んでいて、「魂」の存在に気付いていない。辞書に「魂は肉体に宿って、心と身体を支配する」とあるように、「心」は「魂」の従者であり、有能な道具の役を果たしている。厳密にいうと、「心」は表層心理という脳脊髄神経の領域であり、「魂」は深層心理、潜在意識の領域である。

「心」は自我の表面で、小我ともいわれ、「魂」は真我、大我、本当の自分、自我の奥底ともいわれる。「心」は私たちの精神作用のうち僅か5~10%しか占めていない。精神の本体をなしているのは、「魂」の領域である意識下に隠れた部分で、良心とも呼ばれている。つまり、魂こそが本当の自分だといえる。私たちの近代思想は、「心」を重視し過ぎて「魂」の存在を忘れてしまいがちである。

それでは、なぜ魂から出る意志が強いのか。私たち人間は、動植物と同じ生き物であり、大自然の摂理、宇宙の意志によって、生命を与えられている。私たちの魂は、宇宙の意志を帯びて生まれ、大自然の持つ莫大なエネルギーを持っているといえる。

そのエネルギーは、身体と心の支配を可能にし、自らの命さえも捨てる力を持っている。国を救うため、命を捧げて悔いない兵隊の祖国愛、わが子の死を救うためなら自分の死もいとわぬ母の愛、いずれも魂の命がけの働きが愛の奇跡を生んでいる。故に、愛も信頼も、魂の働きによってのみ可能で、心では不可能といえる。大自然は愛である。太陽と空気と水で、自然の生き物を育んでいる。その意を帯びた魂は愛である。

私は幸いにも、その強大な力を持つ魂の存在に気付くことができた。それは、75年前、南太平洋の戦場において、死を見つめる中から、自分が魂の存在であることを直覚できたことによる。敗色が濃くなりつつあるラバウルで、連日、100機に余る敵機の来襲を受け、死は免れないとひそかに感じていた。

そのような中でのある夜、心の奥から、「どうせ死を免れないのなら、びくびくしながら死を待つのでなく、思い切って死ね」という声が聞こえてきた。「潔く、前から撃たれて死のう」と決心した途端に、勇気が湧き出してきた。

死を見つめる中から、自分が魂の存在であるのを知った私は、積極主義の楽天家に一変した。それ以来、自分が魂の所有者であることが頭から離れることはなかった。今日、99歳に至るまで、魂の志に導かれて事を成しつつあることを天に感謝したい。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2019年3月)より』

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