クッキー(Cookie)の使用について

本サイト(www.tadano.co.jp)は、快適にご利用いただくためにクッキー(Cookie)を使用しております。
Cookieの使用に同意いただける場合は「同意する」ボタンを押してください。
なお本サイトのCookie使用については、Webサイトにおける個人情報の取り扱いについてをご覧ください。

検索

Vol.207 「運と徳」

2019/06/10

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

運と徳は一見すると結びつかないように思える。しかし、徳を積む生き方は、幸運を招く力となり、運も徳も自らの修養によってつくれるといえよう。同時に、運命は私たちの知恵の及ばない、宇宙の大きな力が働いているのも事実である。

徳を持つ人は、大勢の人から尊敬され慕われ、無言のうちに人を感化させる力を持つ。また、運と徳は、本を正せば同じで、自らの行いで徳を積み自分がつくられ、つくられた自分が運を招き寄せている。意外に思うだろうが、徳を自分がつくると同様に、運命も自分がつくっている。

私たちは、運命を「決められた人生の予定コース」で、動かすことができない「宿命」と解釈していることが多い。しかし、運命は変えることのできない「宿命」ではなく、ダイナミックで可変的である。つまり運命をどう受け止め処していくかによって変えられる。運命は天の配剤であるとともに、私たちの修養によって限りなく変化させ、創造し得ると考える。

もし、私たちが学びと実践によって、日々創造していくならば、自らがどう変わり、人生がどう変化していくかは計り知れない。誰でも不幸や災難にあえば、不運を呪うだろうが、病気、怪我、失敗などは、私たちの生活の中に繰り込まれていて、誰もがそれ無しに生きることはできない。ならば、それを嘆くよりも、平然と受け入れ,冷静に対処した方がどれだけ賢明かもしれない。

運命は人生にその素材を与えるだけで、私たちの責任においてプラスにもマイナスにもできる。運命より強いのは人間の精神である。何かが起こったとき、私たちの対応の仕方で全く違ったものとなる。いいことばかりの人生は、何処にも存在しないのだから、いいことが起こっても悪いことが起きても、運命のすべてを肯定することである。自分にとって必要だったことのように受け入れるのである。

運命には指一本指せないと思ってしまうと、人間は運命に操られる「ロボット」と化し、人間の主体性、自由というものを無くしてしまうことになる。人間は運命をつくるからこそ存在理由があり、また、そこから主体性、創造性が生まれる。だから、徳を積む創造の日々があればあるほど運をつくり上げ、反対にそうでないと運命に支配され、翻弄されることになるだろう。

私は、自分にまつわる運命は、どんなに理不尽、不条理であっても、すべて受け入れて処してきた。その結果、すべてが精神的に成長できる糧になったと信じている。運命に叩かれ、鍛えられ、苦しむことが無かったなら、私の人生は形成できなかった。青年期に過ごした過酷な戦場で、目の前に迫る死の運命を、進んで受け入れた瞬間、計り知れない精神的支柱を得た。運命をどう受け入ればよいかを学ぶことができた。

好ましくない、避けたいと思う運命ほど貴重な教訓を含んでおり、一見好ましいと思える運命には、得るよりも失うものが多いのではないか。自分にふりかかった不運を嘆くのではなく、すべての出来事には必ず意味が含まれている、自分に必要だから与えられたのだと受け取るならば、人間として大きく成長できる。

不運を感謝できるようになれば大したものだ。「失敗がありがたい、自分を成長させるために失敗を与えられた」と考えるようになる。従って、人生には幸運も不運も存在しなくなり、運命をそのまま受け入れて、自らの成長の糧とできるようになる。

言い換えると、私たちは運命によってつくられると同時に、自らの運命をつくっていく存在といえる。西田幾多郎著「善の研究」に「環境は人をつくるが、同時に環境は人によってつくられる」とある。99歳の生涯を省みて、運命という環境によって私がつくられたと同時に、私は自分の環境をつくってきたといえる。さらに、徳を積み重ねて、運命を受け入れ感謝の日々を送りたい。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2019年4月)より』

航海日誌