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Vol.208 「枠を破る」

2019/07/03

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「枠」という語からすぐ思い付くのは、社会や集団の取り決め、規範や制約のことである。しかし、それらは大切ではあるが、もっと大事なのは集団を構成している私たち自身の「枠」ではないだろうか。今回は、自分を含めて人間の「枠」について考えてみたい。

私たち誰もが、物事に対して知識や見解を持っているが、百人百様、全く同じではない。しかも、その見解の違いを相手の偏見だと思い込むと同時に、多数の見解に従うことが良いと考えがちである。とんでもないことで、もし誰もが同じ考えであったなら、そこから進歩は生まれない。異なる見解を突き合わせることから、さらに良い考えが生まれ、社会の発展と人間の進歩・成長がもたらされる。見解の相違である偏見はなくすほうがいいのではなく、なくてはならないのである。同時に、自分の考え方、感じ方には取り除きがたい偏見があり、自分は不完全であると自覚することが重要である。その自覚から他人の意見を聞き、受け入れる素地ができてくるといえる。

私たちは、運命を「決められた人生の予定コース」で、動かすことができない「宿命」と解釈していることが多い。しかし、運命は変えることのできない「宿命」ではなく、ダイナミックで可変的である。つまり運命をどう受け止め処していくかによって変えられる。運命は天の配剤であるとともに、私たちの修養によって限りなく変化させ、創造し得ると考える。

スペインの思想家オルデガ・イ・ガセットは「Together and Alone」という言葉を残している。大勢の集まり中にいながら自分の考えを大事に保持せよ、「和して同ぜず」という意味である。偏見は必要なのだが、それを主張しすぎると、かえって逆効果をもたらす。偏見を俎上にのせ、さらに次元の高い達見に育てることが自分の「枠を破る」ことにつながるのではないか。

「枠を破る」力は心ではなくて、生まれつき与えられた、自分をより良くしたい魂の働きである。なぜ、私たちは向上心をもって生まれているのだろうか。人間は動物・植物と同じ、自然の生き物の一部である。自然の生き物というのは、一木一草一匹の虫に至るまで、自然の恩恵を受けて生成発展を続けている。そうした生き物すべてが生きる力を与えられ、この世に生かされている。人間も同様に自然の持つ生成発展の意志を呈しているといえる。

しかしながら、生成発展は必ず障害を伴う。物事というのは、障害なしにすらすら運ぶことなど滅多になく、壁にぶつかりながら、発展するのである。その障害を乗り越えていくことが「枠を破る」ことであり、向上心の奥にある魂によって初めて可能となる。

心さえどんなものかが分かっていないで、魂を知ることはできない。魂は命をかけて見つめ達観することによって、初めて知ることができる。幸いにも、私は青春期に敗色濃くなった南方の戦場で、自分の命がそう遠くないうちに、終わることを認めずにはいられなかった。どうせ死ぬ命なら潔く捨てよう、祖国の危機に一命をささげることは男子の本懐ではないか、ならば前から撃たれて死のうと決めた。この決意は、大義名分や名誉心から生まれたものではない。心の奥から突き上げてくる言葉で言い表せない天の啓示だった。

命を捨てる決心は、心で考えてできるものではない。躊躇なく意を決した自分を誇らしく思え、それは魂の働きであることに気が付いた。同時に、私が魂を持っているのではなく、魂こそが私であり、自分が魂の存在であると確信した。言い換えると、魂が私を名乗っているのである。魂は偉大であって、自分の命さえも捨てる力を持っている。手元の辞書には「魂は生き物の体の中に宿って、心の働きをつかさどる」とあり、文豪トルストイは、その著「人生の道」に「魂とは肉体に宿り、心と身体を支配し、統御する」と述べている。

青春期に魂の存在に目覚め、達見して歩むことができた私は、なんて幸せ者かと思うこの頃ごろである。死に直面し、魂の存在を体得したことで「枠を破った」といえるのではないか。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2019年5月)より』

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