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Lifting your dreams
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Vol.209 「看脚下」

2019/08/02

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「看脚下」とは、足元をよく見よということであり、同じ意味で「脚下照顧」という言葉をよく耳にした。いずれも真理を外に求めるのではなく、自分を顧みて価値観や生き方を再検討せよという。

つまり、自分を顧みて反省することであり、他からの指示や強制ではなく、自ら気付くことによってのみ行われる自発的な行為である。しかしながら、いくら「反省せよ」と言われても、直ちにその気になれないのが普通である。では、どんなときに反省する気になるのだろうか。私は「良心のとがめる」ときが最も多いのではないかと思う。

私たちは、普段何気なく言ったことやしたことが、後になって気になり、「少し言い過ぎたかな、やり過ぎたのではないか」と考えることがある。それを「良心のとがめ」といっている。自らをとがめる謙虚さが、自分を顧み、反省する気にさせるのではないか。良心とは、進路からの外れを示す羅針盤の役目をするが、それは魂の働きであると私は考えている。したがって、良心は誰にもあり、魂の別名といってよい。

ここで紛らわしいのは、とがめる良心の自分と、とがめられることをした自分の、二人の自分がいることになる。いうまでもなく本当の自分とは良心の自分である。一方のとがめられる自分とは、心の赴くままに動いた自分である。「魂は、心と身体を支配し統御する」といわれるように、良心は心と身体の働きを注視し、その誤りを矯正する力を持っている。要するに、「看脚下」とは、自分を顧みて良心の声に耳を傾けることであり、即ち魂の働きといえる。

ところが、魂の働きを妨げているのが心である。なぜなら、心というのは合理的にしか考えられない不完全なものだからである。心は自分がつくったもので、生まれた時には無かった。2、3歳頃から言葉を覚え、言葉を組み合わせることによって考えるようになり、その積み重ねが次第に心をつくっていった。これが理性の始まりある。

故に、心は合理的につくられていて、理屈に合うことしか通用しないが、人間にとって大事なことはすべて感じることであって、言葉に表すことができない。例えば、愛するとか信じることは、言葉でなく、自分の運命を相手に委ねるという理性を超えた魂の行為である。それが愛と信頼の奇跡を生む。

私たちの日常の社会生活は、心と理性に従っておれば、十分営んでいける。したがって、ほとんどの人が心と理性を金科玉条と考えて、最も大切な魂の存在に気付くことがない。辞書に「魂は肉体に宿り、心と身体を統御・支配する」とあるように、心は魂の従者であり、魂の有能な道具なのである。

心は自我の表面で小我ともいい、魂は、真我、大我、本当の自分、自我の奥底ともいわれている。「心」は私たちの精神作用のうち僅か5~10%しか占めていないが、精神の本体は、意識下に隠れた魂の部分で、良心と呼ばれている。つまり、魂こそが自分だといえるのだが、私たちの近代思想は、「心」を重視し過ぎて、魂の存在を忘れてしまっている。

ここまで述べても、魂の存在を認めるのは難しいかもしれない。精神医学者の河合隼雄は、「魂とは、そこに机がある、椅子があるように、魂があるのではない。あると思った方が分かりやすい」と言っている。しかし、その魂の存在はどのようにして知り得るのだろうか。

例えば、大きな災難に遭遇して対応に窮するとか、大病を患う等生命の危機に瀕した場合。絶望で自分の考えを捨てたときに多いのではないだろうか。頭が空っぽになり、ふっと聞こえてくるのが魂の声である。私は幸いにも、南太平洋の戦場で、死を見つめ命と向き合った経験から、自分が魂の存在であることを直観した。

それ以来75年間、良心という魂の導きによって、自らの命と戦火に散った戦友の命を共に活かしたいと生きてきた。それは「看脚下」の歩みであったといえるのではないだろうか。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2019年6月)より』

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