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Vol.210 「命は吾より作す」

2019/09/05

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「命(めい)は吾(われ)より作(な)す」とは「運命は自分がつくる」ことを意味する。これまでも運命について述べてきたが、運命をどうとらえるかが、私たちの人生にとっていかに大切であるかを示した。ところが、「死」には一言もふれていない。もし死を運命の一環として、自らをしっかり見すえるなら、今回の題をより深めることができるのではないだろうか。まずは、これまで運命について語ってきたことを振り返ってみる。

平成17年3月「運命をひらく」では、運命は「決まりきった人生の予定されたコース」で、生涯動かすことができないものではなく、私たちの修養によって「創造し得る」ものであると述べた。運命より強いのは人間の精神であり、自主性、主体性である。人間は運命をつくるからこそ存在理由があり、また、そこから自由や創造性が生まれるのである。

自分にまつわる運命が、どんなに理不尽、不条理であっても嘆かず悲しまず、起きたことは起きたこととして事態を受け入れた上、可能な限りつくり変えていく。いかなる場合でも、精神的に成長できると信じている。私は、青年期に過ごした戦場の体験から、運命をどう受け入れればよいかを学ぶことができた。当時の戦況から死は免れない、ならば潔く死のうと決意した。その瞬間すべてから開放され、自由とはかり知れない精神的支柱を得られた。不思議な道程である運命には、無意味なもの、無価値なものは何一つないと確信できた。挫折も失敗も、病気も災難も、プラスにできる。

平成22年3月「運をつかむ」では、運命は宇宙の大きな力が働いていると同時に、自らつくるものだと述べた。身に起きた出来事をどう受け止め、対処していくかで、限りなく変化させ、創造し得るのが運命である。運命が変えられないものなら、私たちはそれらに操られるロボットと少しも変わらないことになり、自由も努力する必要もなくなる。しかし、絶えざる学びと実践によって日々創造をするならば、運命をつくることができる。人間の存在理由はそこにあり、創造性も生まれてくる。

平成23年3月「運とツキの法則」では前回と同様に、運命は固定したものではなく可変的で、運命をどう受け止めるか、その処し方によってどのようにも変えられると述べた。すなわち、限りなく創造し得るものと考える。また、創造的であればあるほど運を呼び寄せるが、創造的でないと、運が尽きて運命に翻弄されることになる。故に、運命のすべてを肯定して受け入れ、自分の支配下に治めることによって人間の成長が始まる。

人生には一見すると、幸運または不運に思える出来事が次々に起こるが、不運からは逃げてはならない。逃げれば苦しさが増し、何事も成就せず、成長もあり得ない。「よし引き受けてやる」という気構えができると、その瞬間、不思議にそれまでの苦悩が半減してしまう。そういう気持ちになると、案外、問題は解決していくものだということを度々経験している。

失敗は、私を成長させるために与えられたと、それを糧に成長を考えるようになる。故に、人生に起こるどんな出来事にも、マイナスになることは何一つない。人生には不運も幸運も存在しないから、幸運を求め不運を避ける必要もなくなる。

これまで4回にわたって、「運命は自分がつくる」にはどうすればいいかについて述べた。が、死という運命を考えずして、「命は吾を作す」ことを語れない。私の場合は、戦場という環境に置かれ「死」に対峙したことが「命を作す」礎となったが、平和な時代にあっても、「死」を見つめ考えることは可能であろう。死を見すえ「命は吾を作す」にはどうすればいいのか。来月に述べたい。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2019年7月)より』

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