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Vol.211 「(続)命は吾より作す」

2019/10/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

7月のテーマは「命は吾より作す」だった。が、死を抜きにした運命を説いても、深層にふれることはできないので、今回加筆したい。生前、いかに輝かしい人生を送ったとしても、死の不安を抱えたまま死を迎えるなら、その生涯は寂しいものとなるだろう。たとえ、慎ましくひそやかな人生であっても、心安らかに死を迎えられるなら、人生の大成功者といえる。

死を明らかにすることは、同時に生きることを明らかにするからである。ギリシャの哲学者エピクロスが、「人生の最大の目的は、心の平安を得ることだ。その心の平安を乱す最大の原因は、自分の死についての想念である」と述べている。

たとえどれほど輝かしい環境に恵まれていても、自分の死に不安がある限り、幸福とはいいきれない。古来人々の多くは、死とは、生きている自分に襲いかかってくる恐ろしい出来事のように思っていた。だから、死は不吉なこととして、厄払いに塩を撒く風習さえ残っている。死ぬということはどういうことなのか。

そこで、この死についての謎を説く聖者が現れた。キリストと釈迦である。これが現在に続いている宗教の始まりである。ところが、二聖人の死後、それぞれ教団が形成され、教義が掲げられ、互いにその正当性を巡って争うようになった。死と死後については、今も私たちを納得させるに至っていない。その謎を実証によって解明しようとしたのが近代の科学である。

それは、物質、すなわち眼に見えるものを分析、追及していくもので、確かに私たちに多くの知識を与えてくれた。だが、多くの科学者は、眼に見えない精神を考慮に入れない死の謎を、解明できていない。死体と死は同じものではない。死体は眼に見えるが、死は眼に見えないので科学者は扱えない。それを扱うのは宗教ということになった。古今の宗教家たちは、死と死後について語り続けてきたが、語っているのは皆生きている人である。宗教にも実のところ、死について私たちを納得させることができていない。

哲学者エピクロスは「あなたが死を怖がるとき死は未だ来ていない。死が本当に来たとき、あなたはそこにいない」と言った。すなわち生きている間は、死はやってこないし、死ぬときはもう生きていない。つまり、自分の死と対面することができず、いつ死んだかを知ることができない。いつのまにか死んでいるのである。それはちょうど、私たちが眠りに入るとき、いつ寝たかを知ることができないのと同じで、死は少しも恐れるに当たらない。

「死の瞬間」の著者、エリザベス・キューブラー=ロスは「我々の肉体は蚕(かいこ)の繭に過ぎない。内なる本当の自己、蝶は不死であり不滅である。そして死と呼ばれる瞬間に自由になる」と述べている。インタビューの際に、彼女が真剣にそういうので、記者が「じゃあ、あなたは死ぬのが楽しみなのですね」と彼女に言った。すると「Yes, I am expecting」(ええ、心待ちにしています)と答えた。

死は人生の到達点であると同時に、第二の人生の出発点である。死語の世界があるのか。私がそれにこだわるのは、死に対する不安と大きく関係するからだ。しかし、証明することができないが、私はその世界があることに懸けている。なぜなら、あの世に行けば、亡くなった親や親しい友人に遭えるかもしれないし、この世のしがらみから開放され、自由になれるのが予想される。もし期待したあの世が無くても、失うものは何もない。逆に、無いと考えていて、もしあれば大損するし、死はすべてが無となる「これっきり」の空しい結末になるからだ。

どんなに解き明かしても、死に対する恐怖は容易に払拭できるものではないが、唯一つの方法がある。今ある命を自分の持ち物として取り扱わないことである。大抵の人は、命は自分が持って生まれたと思っているが錯覚で、命が与えられたから生まれたのである。もし持って生まれたのなら、死が迫ったとき、しっかり掴まえていないのか、自分の意志に関係なく命は去っていく。

今ある命は自分の所有ではなく、預かり物であると心得ることである。自分の所有と考えて生きている限り、それを失う恐怖から逃れることはできない。今ある命はもとより、財産、地位、名誉等のすべてを、預かりものとして扱うなら、それらを失う恐れは消え、完全な心の開放と自由、心の平安が齎(もたら)される。

生意気なことを述べたが、死についての私の実感が私をして書かせたのだと思う。3年余りの南方の戦場で、何度も死ぬ目に遭いながらも生き延びて、戦災直後の瓦礫に埋もれた我が家の焼け跡に佇んだ時である。今ここにいるのは、もしかしたら夢ではないのか、こうして生きている自分は幽霊ではないかと思った。そうではない、今ある命は新しく与えられたからこうして立っている、と思い直すことで吾に返った。それ以来、今ある命は預かりものなので、いつでも元の持ち主に返すものだと考えるようになった。それが死である。もしこのような考えが持てるなら、死は恐れるものではなくいつでもお返しできる心境になるのではないだろうか。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2019年7月)より』

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