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Vol.21 時代の呪縛

1998/09/01

当社名誉相談役 多田野弘の名物コーナー。Vol.1~Vol.15ではエッセイをお届けしました。豊かな人生観に触れ、力が湧いてきたというご感想もたくさんいただきました。Vol.16からは名誉相談役が社員の質問に答える新企画でスタート。今後ともよろしくお願いします。さて、今月の質問は「時代の呪縛」です。

今月の質問者:K.F.さん(社長室業務課)~盆休み、オートバイで一人旅。パンツ裏表2回使用で4日間、雨の九州を走破。行った先では旧友&知人に、帰ってからは娘に、随分叱られました、トホホ!

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小生、現代人は私を含んで「何かに持つ」と同様に「何かになる」ことを強要され毒されているのではないか?と感じているのですが‥

曰く、何をしてどんな人生になるか地図を持って生まれてくる人はいません。しかし、物心ついた子供は「大きくなったら何になるの?」と言い続けられ、それに向かって努力することを強いられ勝ちです。未来は誰も知らないのに、大人という「自分の映る鏡」に合せ「看護婦さん」「Jリーガー」などと答えさせられ、思い込んでいるのではないか?って感じるのです。

数百年前まで、何になるかは生まれた時にほぼと決まっており、戦争中は戦争の体験を否応なく強いられました。それに比べれば今は恵まれた幸せな時代です。何にでもなれる自由があり、考えることが出来るのですから。

しかし、それは同時に不幸なことだとも思います。「何にでもなれる」は、「何にはなれない、何にもなれない」を含んでいるからです。人は大事にされる影の部分で、得られる体験は限られ、現代の比較的安全な何か一つに「なること」を強いられているように思うのです。

「自分は何者か、どうすべきか、考え、実行し、失敗し、試行し続けるのが生きること」と思うのですが...。勇気を持って「試行する」ことが大切で、何か一つになると決めることは、無限の可能性や体験をむしろ制約することに通じるのではないかと思うのです。

ほんの50年間で発生や消滅する職業名さえ無数にあるのですし、例えなったモノ(例:教師)でさえ、ピン・キリなんですから。多くの失敗はあれど、行動し続ける、その行為自体の深さに価値があり、「何であるか」の命名は第3者が、むしろ勝手にするもので、「なる」こと自体は(ある時期目標にはなっても)それ自体は価値はなく、むしろ「する」こと(教師なら「教え育む」こと)に本来意味や価値があるのではないでしょうか?

と言うのが、ある3才児が「ウルトラマンになる」って言うのを聞いて(ウルトラマンは怪獣が居て初めて価値がある矛盾はさておき)救われた気がしたのです。こんな時代、私たちはどういう心がけで生きていけばいいか、アドバイスをいただけないでしょうか?


弘名誉相談役:文化の秋到来。9/3(木)つくば大学でのシンポジウムにて講演予定。テーマは「健康と人生」。9/9(水)には広島にて、中国地方の住職さんへ講演予定。こちらのテーマは「生きがいと死にがい」。恒例のパフォーマンスは飛び出すのでしょうか。

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あなたは「何かを持つ」とか「何かになる」ことを、他から強要されそれに毒されているのではないかと感じておられるようですが、これには三つの問題が含まれているように思います。

一つは、他から強要され、それに毒されるのではないかと考えるのは被害者意識があるからだと思います。

私たちは,他からたとえどんなに強要されようとも、それを受け容れるか、拒否するかを決める自由は自分にある筈です。自分の人生は自分で決めるのではないですか。その為には、いつでもNOと言えるだけの自己の確立が必要です。つまり、主体性を持ち、ハッキリした目的意識を持つことであります。

二つには、「何かを持つ」と「何かになる」とはともに、それは目的として考えるのか、手段として考えるかによって答えが大きく変わってきます。

もし、これを目的として考えると、過ちを犯しやすくなると思います。なぜならば、「持つこと」も「何かになる」ことも、共に欲望と執着心を伴い、その為には手段を選ばずと言うことになりかねないからです。また、その欲望は無限大に広がる性質を持っていて、それに引きずり回される恐れがあるからです。だから、「何かを持つこと」「何かになること」が目的でなく、それを考える前に、まず何の為にそれを持ちたいのか、何の為にそうなりたいのかを考え、しかる後その目的に相応しい手段として「何かを持つ」「何かになる」ことであって欲しいのです。

三つ目には、「持つこと」より「ある」ことの方がもっと大切であります。

私たちは誰でも所有欲を持っていますが、これが、気をつけないと私たちの人生を誤らせる場合が多いのです。しかも、この所有欲のある限り私たちは、苦悩から逃れることが出来ないのも事実です。即ち「持つこと」に執着する限り、それを失うことの恐怖から逃れることは出来ないからです。ではどう考えればいいのかと言えば、いま「ある」ことを感謝し、自分に必要なものは必ず与えられる、与えられないのは自分にいま必要ないからか、もしくは与えられる資格が備わっていないからだと考えるのであります。だから、必要な時には、災難や苦難も与えられるのだと受け取ることにあります。

また、あなたは「なる」ことはある時期目標にはなるが、「する」ことにこそ意味があると言っていますが、「する」について付け加えますと、「何かになる」という、あるよい結果をもたらす為に、人間はまず、最も効果的な手段を選び出し、それを実行に移すということをやります。つまり、良い結果をもたらしたいと思えば必ずそういう努力を払わざるを得ないわけです。

ところが、そういう努力の過程で失敗する人が多いのも事実です。良い結果をもたらそうと必死になって努力しておりますと、自ずから、この如何なる手段を選ぶかということに専ら思考が集中していくのはやむを得ないことであります。ところが、それのみに思考が集中しておりますと、いつしか結果の論理が独走して、結果さえ良ければ心情的にはどんな汚い不道徳な手段であっても遠慮会釈なく採用するようになってしまうからです。そうならない為には、どうすればいいのでしょうか。

良い結果をもたらす為に、私たちは最も効果的でしかも最短距離にある手段、ともすれば安易な手段を選びがちになります。この安易な手段が、私たちの成長を妨げ、進歩発展の大きな障害になっています。何でも意のままになる、至れり尽くせりの環境は人間を堕落させ、ダメにしてしまうからです。行く手に困難も苦痛も失敗の危険もなく、すべてが安易な手段で済ませること事が出来るのは、ある意味では不幸であると言えます。

温室の花が外の寒さに会うと直ぐに枯れるのと同じで、安易な手段は、忍耐とか、刻苦勉励ができない体質の人間にしてしまいます。安易な道よりも、むしろ苦難の道こそ人間の成長に不可欠の条件であり、苦難や失敗の体験が私たちを伸ばしてくれるのです。言い換えますと、逆境こそ私たちに伸びるチャンスを提供してくれたと言えましょう。

前にも述べましたが、振り返ってみると逆境が私と言う人間をここまで伸ばしてくれたと思わずにいられません。家が裕福でなかったので大学へは行けませんでしたが、そのことが私に生涯学習の習慣を創ってくれました。青年時代、海軍で一年間毎日殴られたそのお陰で、どんなことにもへこたれない、逞しい精神力と体力を創ってくれました。生死の境をさ迷った戦場の体験から、生きていることが感謝できるようになりました。また、戦場での粗末な食事に耐えてきたお陰で、いま何食べても美味しく感じられるようになったことなど考えますと、人間は逆境の体験学習の他に私たちを伸ばしてくれる道はないと言えるのではないでしょうか。

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