クッキー(Cookie)の使用について

本サイト(www.tadano.co.jp)は、快適にご利用いただくためにクッキー(Cookie)を使用しております。
Cookieの使用に同意いただける場合は「同意する」ボタンを押してください。
なお本サイトのCookie使用については、Webサイトにおける個人情報の取り扱いについてをご覧ください。

Lifting your dreams
検索

Vol.213 「読書尚友」

2019/12/02

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

私は無類の読書好きである。なぜそうなったか思い当たる節がある。大学に行かせてもらえなかったことと、青春時代の4年間を戦場で費やしたことである。それらを取り戻そうという熱情が「読書」を促し、読書の喜びを知ることになった。

読書からは、数え切れないほど多くの示唆を受けたが、最も大きく私の人生に影響を与えた書が3つある。第一の書は、ピーター・ファーディナンド・ドラッカー著「現代の経営」である。戦後間もない頃、親子3人で企業を始めたが、日本の復興の気運と、続いて起きた朝鮮戦争による景気の上昇に伴い、企業規模を増やしていった。ところが、朝鮮戦争が終わると同時に景気は不況に転じ、仕事量の減少と賃金の高騰に阻まれ、経営は困難に陥った。

この難関を潜り抜けるにはどうすればいいかに日夜頭を悩ましていた。いくら考えても妙案が浮かぶはずがなく、自分に経営の基礎知識が全くないことに愕然とした。すがるような思いで経営の書を探し求めるうちに、偶然、ドラッカー著「現代の経営」を手中にした。貪り読んだ一言一句が、干天の慈雨のように頭に沁み込んでいった。私が何日も悩み、求めてやまなかった経営の基本が、平易に述べられていた。

「経営の目的は、利益の追求であってはならない。価値を創造することによって社会に貢献奉仕することにあり、利益はその貢献度を示す尺度に過ぎない」この一言で私は目から鱗が落ちた。自分の考えがすっきり整理され、大きな自信を掴んだ。この理念・哲学で経営するなら、例え失敗しても悔いないほどこの一言に惚れ込んだ。次々と新しい改革案が浮かび、ためらうことなく実行に移した。その効果は驚くほど顕著に現れた。

まず、会社の経営目的を「創造・奉仕・協力」の3つに表し、全員に分かりやすく語り、周知徹底を図った。次に、出勤簿・タイムレコーダーを全廃し、自主自律の行動を促した。続いて、日給制を全員月給制に変え、週休二日制を四国で初めて採用した。さらに、献血運動を起こし、その参加率が総理大臣賞を受けるほどになった。そのようにして培われた自主的風土は、会社の文化となり、全員が誇りとしている。

第二の書は、1967年発行、西田天香著「懺悔の生活」である。「人間は裸で生まれ、死ぬときも何一つ持って死ねないように、生命はもとより、今持っているすべては預かり物である」という、無一物中無尽蔵の思想に魅かれた。震えるような感動を覚えるとともに、私が戦争を生き抜いて得た「今ある命は与えられた命である」という考えが裏づけされ、大いなる自信を得た。

第三の書は、レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ著「人生の道」である。かつて私は戦場で、どうせ死ぬならじっと待つよりも、潔く決別しようと覚悟を決めた。しかし、死を決めたこの直観が、どこからもたらされたかが分からなかった。それをトルストイは「人生の道」に、「魂は肉体の中にあって、心と肉体を統御・支配する」と示していた。心では扱えない、死を決めた私の直観が何者であるかが分かった。

トルストイは神について次のように述べている。
 「私たちの肉体に生命を与え、これと密接に結びついている肉体的でない『何者か』があることを知っている。この『何者か』を私たちは魂と名づけている。また、この世に存在するすべてのものに生命を与え、そして何者にも結びついていない、肉体的でない『何者か』を私たちは神と呼んでいる。あらゆる信仰の基礎は、この眼に見えぬ『何物か』があるという事実の上に築かれている。しかし、理性によって神を認識することはできない。

私たちが神を知ることができるのは、多くの人が乳飲み子のとき、自分を抱いている母親の腕の中で感じる、あの気持ちに似ている。赤子は誰が自分を抱いているかを知らない。誰が自分を暖めてくれているか、誰が自分を養ってくれているかを知らない。だが、そういう何者かが居ることだけは知っている。いや、知っているだけでなく、自分を腕の中に支配している人物に任せきっており、しかもその人を愛しているのだ。私たちと神との関係もこれと同じである。

人間は長生きすると、多くの変化を体験する。最初は赤ん坊であり、次に幼年になり、それから大人になり、さらに老人になるのだが、人間がどんなに変化しても、常に自分のことを『私』という。この『私』なるものは人間の中にあって、常に変わらないこの一定不変の『私』なるものこそ、私たちが魂と名づけるものである。私たちの生命は肉体の中にはなく、魂の中にのみ存する」と述べている。

私はこれほど分かりやすく、魂と神について書かれた書を見たことがなく、全くわが意を得たりであった。この書から、私が魂を持っているのでなく、魂こそが私自身であることを知り、感動に打ち震えた。一気に読みつくし、魂への疑惑は完全に氷解した。これについては、平成15年10・11月の2回にわたり、「魂の目覚め」「魂の存在」と題して発表している。

感銘を受けた書はこのほかに、ヴィクトール・エミール・フランクル著「夜と霧」、芳村思風著「人間の格」、エリザベス・キューブラー=ロス著「死、それは成長の最終段階」などがある。感動した書や読みたい書に囲まれていると、宝の山に入ったような豊かさを覚え、大舟に乗った気になる。

読書について私の考えを述べてきたが、読書にも落とし穴があることを知っておきたい。読書は単に知識や情報を増やすことではない。いくら知識が豊富であっても役立たなければないに等しい。知識は、体験に裏づけされていなければ空理空論に過ぎず、体験を通して初めて判断力が育つのである。私たちはそれを知恵と言う。さらに、博識にとって恐るべき敵コンピューターが現れ、もはや単なる知識を多く持つ必要がなくなった。

読書の大切な役目は、知識と経験を組み合わせることによって、組織化された知恵をつくることにある。知恵は、物事の本質を瞬時に掴む判断力を養い、思考の拡大による創造力を生むのである。知恵をつくり出すのは難しいことではない。丁度、麦芽に酵母を加えて醸成させると、美味しいビールがつくられるのと似ている。読書には、賢人の知識に自らの体験を加えて、知恵をつくり出す力がある。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2019年9月)より』

航海日誌