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Lifting your dreams
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Vol.215 「語らざれば愁なきに似たり」

2020/02/03

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「語らざれば愁なきに似たりと」は、語らなければ愁いがないように見えるが、人は悲しみや苦しみを胸に抱き歩んでいることではないか。人生は良いことだけなどあり得ず、喜びも悲しみもある。私たちは苦難を体験するからこそ、自らを高めることができるといえよう。また、死があるからこそ、生きていることに感謝できるのである。

私たちの悲しみや苦しみの最たるものは、肉親の死や親しい友との死別である。その悲しみはうかがい知れないほど大きい。他日思い起こすなら、生前の在りし日が偲ばれ懐かしく思える。私も多くの死別を経験している。とりわけ、共に死を誓い合った戦友の死は数え切れない。私だけが死を免れ、生かされていることが不思議に思えた。彼らの死を無駄にせず、彼らの命も生きようと歩んできた。

先日、ごく親しかった戦友の死亡通知を受け取ったが、なぜか悲しい気持ちになれなかった。私が死に動じなくなったのは、青年期に過ごした戦場の体験による。昭和18年7月、ラバウル※は連日100機に余る戦爆連合の来襲があり、B24爆撃機は1トン爆弾を落とすのだから、毎日が死との対決であった。最初は、200機ほどいたゼロ戦と互角の戦闘が続いていたが、量の差で次第に劣勢に陥り、死傷者も増えていった。搭乗員の損失は大きく、私と軽口を叩き合っていた彼らは次々と南の海に散っていった。

空襲が去り、戦死者を担ぐ兵士は黙して語らなかったが、自分の明日の姿かもしれないと呟いていたであろう。このような日が続くことから死は日常茶飯事となり、取り立てて騒ぐ者はいなくなった。そうした中で、私が死に直面した場面が何度かある。一度目は、昭和19年1月、我が戦闘機隊がラバウルからサイパンへ2隻の貨物船で移動したときである。出航の翌日、コンソリデーテッドの爆撃機が飛来し投弾され、同行していた1隻に命中し、目の前で船首を上にして沈んでいった。我が船には至近弾のみで沈没を免れたが、その翌日、魚雷が命中し、私は甲板上から海に飛び込み、太平洋に一人浮いていた。もうこれまでと死を覚悟して天にわが身を預けたが、数時間後、駆逐艦に救助された。

二度目は、昭和19年2月17日と18日、トラック島が全滅の翌日、サイパンの我が戦闘機隊全機の応援出動が令されたときである。私は整備の責任者として爆撃機にて同行を命じられた。これで私の死が決定的となった。なぜなら、途中で敵機に遭遇すれば、真っ先に撃墜されるのが分かっていたからだ。私は死を覚悟して爆撃機に乗り込んだ。幸いに敵機に遭わず、爆弾で穴だらけになっていた滑走路に滑り込んだ。

三度目は、昭和19年3月、部隊全員が空母千代田にてぺリリュー島に移ったときである。3月30日と31日、敵機動部隊が来襲し、グアム・サイパンからの応援52機を含めて邀撃するも全機未帰還となり、無抵抗となった島への敵前上陸が必至となった。私たちは上陸地点と目される海岸の白浜に、航空爆弾を埋めて敵の上陸を待った。この白浜が自分の死に場所だと思うと、死の怖さなど吹き飛んでしまっていた。しかし、死を覚悟したのに敵は去って行った。待ち構えていた敵前上陸は無かったが、戦死者は246名にのぼった。

一週間後、私は戦闘機受領のため中島飛行機製作所に出張を命じられた。パラオにいた飛行艇に便乗、玉砕寸前の島から8時間後、桜咲く横浜に着水した。その嬉しさは言葉にならなかった。ゼロ戦32機を受け取り、台湾を経由してフィリピン・セブ島基地の我が隊に空輸を果たすことができた。

四度目は、昭和20年1月、フィリピン・マバラカット基地であった。彼我の戦力の差がますます大となり、世界に類の無い、戦闘機に爆弾を抱かして突入するという特別攻撃隊が我が隊から始められた。その効果は予想外に大きく、繰り返し行われた。それに使用する戦闘機がなくなった頃、夕闇迫る滑走路に着陸したのは、なんと、羽布張りの複葉練習機の一群であった。特攻機に使用するというのを聞いた途端に気が抜けてしまった。

もう戦争が終わりに近いことを、下っ端の兵士である私でも肌に感じるようになった。フィリピンの土になろうと死を覚悟することができた。そうなると、心は晴れ晴れとして、何の束縛もない自由な天地が開かれたような気持ちになった。やがて戦いは終わりを告げた。

戦時中、何度も自ら進んで命を投げ出そうと決心し、死を覚悟した。何がそうさせたのだろうか。それは魂以外にないと直感した。同時に、命は大自然の意志によって生まれ、その莫大なエネルギーを分与されていることを知った。また、命より大事なものに気付いたのもこのときである。以来、それが潜在意識となり、生き方の根幹となっている。

戦後、私の生き方の土台になったのは、命を的に戦った友を失った悲しみ、苦しみ、悩みなどである。自分に起こるすべては、必要だから与えられたのだととらえ、自らを高めていく成長の糧としたい。

※パプアニューギニアの島嶼地方の東ニューブリテン州の都市

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2019年11月)より』

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