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Vol.216 「精進する」

2020/03/02

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

先月の航海日誌で、戦場で多くの戦友を失っていながら、自分だけ生き残っていることが頭から消えることがないと掲載した。そのため、安穏に過ごしては申し訳ないという気持ちが戦後の私の生き方になっている。今月のテーマ精進がそれである。精進とは、仏道の修行に励み、心身を浄め行いを慎み、一心に努力することだといわれている。

私の精進は仏道と異なり、苦行に忍従する受身ではなくて、自分が立てた目標に挑戦する能動的なものである。しかもそれを愉快に行うというところに大きな違いがある。仏道の精進は、苦難に耐え歯を喰い縛って行うので苦しみの連続となる。私はそれに比してあえて苦難を取り入れ、快く行うのである。

普通、苦難と快楽は相容れないものだと思われているが、苦しみが喜びに変わる例が登山にもある。何の報酬もないのに、険しい危険な山に重いリュックサックを背負い、汗水たらして登る苦難は大きい。だが、それを征服したときの喜びは、苦しみを吹き飛ばして余りあるものとなる。

私たちは、苦難よりも快楽を好みがちであるが、苦難を避けている限り精進からの快楽は得られない。苦しみが喜びに変わるには、苦難と快楽がどういう意味を持っているかを知る必要がある。それは、どちらも必要不可欠のものであると私は考えている。苦難がなぜ大事なのかはいうまでもなく、苦難なしに私たちの進歩成長はあり得ないからだ。私たちは苦難があったからこそ、それを克服すべき考えや工夫を生み、今日の文明や文化をつくりあげたのである。私たちが成長進歩した結果だといえる。

デンマークの哲学者セーレン・オービエ・キェルケゴールは、「飼い馴らされた野鴨になるな」と言っており、オーストリアの動物行動学者コンラート・ツァハリアス・ローレンツは、「幼いときに苦難に遭わなかったのは不幸せである」と述べている。日本にも、「艱難汝を珠にする」などの故事が残されている。私が好きな言葉に、熊沢蕃山の「憂きことのなおこの上に積もれかし限りある身の力ためさん」がある。私は戦場で目前に迫る死と向かい合い、命の意味を考え抜いた苦難から、戦後も自分にあえて苦難を課すようになった。それが今日の私をつくったといえる。自らに苦難を課したといえばカッコいいが、実は苦難が自らを成長させ、悦びとなるのを知っていたからだ。

快く楽しいことを快楽といい、快楽には心の快楽と魂の快楽の2面がある。心の快楽は主に、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五官の楽しみをいう。魂の快楽は、無心になって何かに命を打ち込んでいるとき、愛されているとき、信頼され頼りにされたとき、自分に勝つことができたときなどの悦びである。従って、心の快楽と魂の快楽のどちらを重視するかによって人格が決まる。精進は魂の喜びをもたらすだけでなく、私たちを奮起させる源となり、人格の形成にはなくてはならないものである。

私の精進は、「私の健康歴」に記したように日常の行動に表れている。自己啓発として38歳のときの禁煙が始まりであった。禁煙もできないようでは、人の上に立つ資格はないと考えたからだ。それが思いもよらず簡単に成功し、次にアラームなしの5時起床に挑戦となった。他からの合図なしに起きられないようでは、今後の成長はあり得ないと思った。これも何の努力もせずに今日まで続いている。

困難と思った課題を次々と克服できた快感が、さらに厳しい課題として、起床後2kmジョギングとその後の冷水浴となった。怠けて1日中不愉快に過ごすよりも、成し得たときの快感が私を衝き動かして93歳まで53年間続いた。さらに44歳から93歳まで元日の寒中水泳を49年間、60歳から献血を14年間続けたのも特筆していいだろう。かくして少しも無理なく、次々と苦難に挑戦するようになった。

困難な課題をよくぞ何十年も続けてきたものだと今になって驚く。「よくやった」と、自分を褒めてやりたい。なぜ誰もが嫌うようなことを続けられたのかは、この文中から読み取っていただきたい。なんといっても、精進は私たちの一生の課題だといえる。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2019年12月)より』

航海日誌