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Vol.218 「心に残る言葉」

2020/05/07

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

私の「心に残る言葉」は、かねてから信奉している、ビクトール・エミール・フランクルの「人は如何なる苛酷な環境におかれても、精神の自由は奪われない」という言葉である。

フランクルはこの言葉の意味を次のように述べている。「吾らが囚われた収容所の日々は、時々刻々内心の決断を迫る状況の連続だった。人間の尊厳、精神の自由などはいつでも奪えると威嚇され、外的条件にもてあそばれる単なるモノになるか、己の尊厳を守る人間になるかは自分自身が決めることなのだ。最後の瞬間まで誰も奪うことができない、人間の精神的自由は、吾らが息を引き取るまで、その生を意味深いものにした。なぜなら、自分の仕事に発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然を味わえる生だけに意味があるのではないからだ。そうした体験がない収容所の生にも意味があるのだ。したがって、生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむことが生きることの一部なら、運命も死も生きることの一部といえる。苦悩と死があってこそ人間という存在は初めて完全なものになるのだ。」

私がフランクルの言葉を信奉するようになったのは、青年期に味わった出来事が大きく影響している。当時わが国には徴兵制度があり、適齢期の男子は身体に欠陥がない限り、陸軍2年、海軍は3年の兵役の義務があった。私は当然だと諦めていた矢先に、朗報がもたらされた。海軍で航空機整備術の下級幹部養成制度が新設されたのである。1年後、下士官に任命され、予備役に編入されるという好条件であった。ところが現実は、日米戦争が勃発し3年余戦場で過ごす結果となった。

私は徴兵適齢期1年前、3年の兵役が1年で済むこの制度に志願し、昭和14年10月、横須賀海軍航空隊に入隊した。19歳だった。入隊前、海軍は特に訓練が厳しいのを耳にしていたが、予想をはるかに超えた凄まじいものだった。一日中の行動すべてに、命令一下、迅速確実を求められ、反問は許されなかった。100人近い同期生が一兵舎内で居住するので、自分だけになれる時間は、休日に外出したときか兵舎の便所で座っているとき、ハンモックに入ったときの数分間に限られた。しかしそれらは大した問題ではなかった。

本番は、海軍独特の殴って教える教育訓練であった。「動作が鈍い、気合が入ってない、娑婆っ気が抜けていない」などといって、三日にあげず鉄拳が降ってきた。また、すべての行動に競争原理が用いられ、敗者には罰の制裁が加えられた。私はどのような行事にも先頭グループにいたが、落伍者が出ると連帯責任としてグループ全員がおすそ分けの制裁にあずかった。

自分に何の落ち度もなく褒めてくれてもよいはずが、このような不条理極まる制裁に我慢ができなかった。その夜に聞く、嚠喨(りゅうりょう)たる就寝ラッパの旋律が心に沁み、悔し涙がとめどなく頬を伝った。やがて気持ちが収まるとともに、少々殴られたぐらいで涙する情けない自分を恥じた。「俺はそのようなひ弱な人間であるはずがない、しっかりしろっ」という声が心の奥から聞こえてきた。すると、もうどのような過酷な制裁があろうと進んで受けてやるという気概が沸々と沸いてきた。これを書きながらも昔が偲ばれ、つい目が潤む。

以来、どのような過酷な制裁にも少しの動揺もなく、蛙の面に水のように受け流せるようになった。鏡で殴られた顔が他人と紛うほど変形していても、笑って見過ごすことができた。このような日々が1年間続いた。私が心身ともに鍛えられ、不撓不屈(ふとうふくつ)の逞しい人間に成長したのは当然といえるだろう。また、この1年間の苦闘があったからこそ、私の全生涯を創出してくれたのだと感謝せずにいられない。

かくして私は、人間の精神力が偉大であることを身をもって体験し、さらに戦場で死に迫る体験を通して魂の存在に目覚めることができた。これらが強固な土台となって、戦後、自分に課した難題を次々と乗り越えられたのは、不撓不屈の精神力の賜物といえる。フランクルが述べた「身体が如何なる過酷な環境におかれても、精神の自由を奪われない」は、私の心に深く響く言葉である。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2020年2月)より』

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