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Vol.219 「意志あるところ道はひらく」

2020/06/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

意志を強く持って一途に取り組めば、必ず道はひらかれるという。言葉にすれば簡単であるが、実際はうまくいかないことのほうが多いように思われる。その最大の要因は、意志の有り様ではないだろうか。

世の中には「俺は意志が強い」という人は少なくて、「なんて俺は意志が弱いのだろうか」と自省している人のほうが多い。昔から三日坊主という言葉があるように、何か良い習慣を身に付けたい、悪い習慣を止めたいと意を決して取り組んでもいつの間にか尻すぼみになってしまう経験は誰もが持っている。その度に「意志が弱い」のを何とかしようと自分に鞭打つのだが、結果は元の木阿弥になっている。

これはそもそも、肉体を鍛えるのと同様に意志力を鍛えようと思うところに大きな錯誤があるのではないだろうか。意志は肉体のように形があるものではないから、肉体を鍛えるように弱い意志を強くすることはできない。

問題は、意志や意欲が自分のどこから出ているかに関係があるように思う。意志や意欲の出どころは2つあって「心」から発する意志は弱く、「魂」から発する意志は強いといえるのではないか。つまり、それが「三日坊主」になるか「やり遂げる」かの分かれ道となり、「意志が弱い、強い」といっているだけである。

なぜ、心がつくる意志が弱く、魂の発する意志が強いのかは辞書にも示されている。「魂とは、肉体に宿り、心と身体を司る」とある。つまり、魂が心と身体を支配し統御している。魂が心と身体の主人であり、心と身体は魂の従者であり、手段・道具の役を果たしているのである。

心がつくる意志が弱いのは、もともと心は生まれたときにはなかったことによると私は考えている。2、3歳頃から言葉を覚え、言葉を組み合わせることによって考えるようになる。これが理性の始まりで心の大部分を占めるようになった。しかし、心をつくった言葉は合理的につくられており、言葉に表せないことについては盲目同然である。人間にとって大事なこと、例えば愛とか信頼など言葉にならないものが多い。心は自分がつくったものだからコロコロ変わりやすく、心がつくる意志が弱いのは当然といえるのではないか。

なぜ、魂には自分(心と身体)を制御する力があるのだろうか。私たち人間は動物や植物と同じように、大自然の摂理、宇宙の意志によって生命を与えられている。したがって、私たちの魂は宇宙の意志を帯びており、大自然の持つ莫大なエネルギーが分与されていると考えられる。そのエネルギーが魂となって心と身体を支配、統御し、自らの命さえ捨てさせるほどの力を持っている。

心は意識できるが、魂を意識することは不可能に近い。なぜなら魂は、生命の危機を感じたときとか命がけで何かに取り組んだときにのみ働くからだ。まさに、私心を超えた、意志あるところに道はひらくのである。

私はかつて、敗色が濃くなったラバウルの戦場で自分の死が近いのを秘かに感じていた。その時、「びくびくせずに、祖国や家族のために潔く死ね」という声が天啓のように響いてきた。どうせ死ぬなら前から撃たれて死のうと決心できたのは、魂の仕業としか考えられない。途端に心が軽くなり、生死の頸木から解放され、自由な晴れ晴れとした気持ちになったのを今でも鮮明に覚えている。

以来、魂の存在を意識して過ごす人生に誇りと自信を持ち、自らの命を戦友の分も生きようと誓った。その意志から小さな会社を興し、社是とした創造・奉仕への道がひらかれた。毎年元日に、庵治の海岸で寒中水泳を51年間(42~93歳)続けられたのは、意志の力よりも自分を統御できる魂の喜びがそれを可能にしたのである。まさに、魂から発する意志が、素晴らしい人生の道をひらく原動力になっている。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2020年3月)より』

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