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Vol.220 「命ある限り歩き続ける」

2020/07/02

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「命ある限り歩き続ける」という言葉は、私が日頃自分に言い聞かせてきたことであり、今までの歩みに現れている。苦行のようなことを自らに課してきた歩みは、意志の力ではなく魂の喜びが影響している。

それは戦場における私の体験にさかのぼる。刻々と迫る死を前にし、私は躊躇なく国家と家族の平安のために「前から撃たれて死のう」と心に決めた。途端に死を待つだけの苦しみから解放され、晴れ晴れとした気持ちになったことを今でも覚えている。

苦しみの死が喜びに変わったのは、この大義に生きようと目覚めた私の魂を天が称えてくれたと思えた。人間の最大の苦しみである死さえも喜びに変わることを知った。戦後、書物を読む中で、多くの賢人によって心と身体を司る魂の存在が裏付けされていることに触れ、自信を深めることができた。私の決断が速いのはこの頃から始まっている。

これらを通して、苦難こそが人間の成長の糧となるのを身をもって知ることができた。子供のころ聞いた「艱難、汝を珠にする」は真実であった。苦痛が喜びになるのは登山の例にもある。険しい危険な山を重いリュックサックを背負って、何の報いもないのに汗水たらして登る登山家は、苦難が喜びに変わるのを知っているからだと思う。

苦難が大きいほど喜びも大きいのを知る彼らは、さらに高く険しい山を目指そうとする。私がより大きな苦難を自分に課してきたのも同じである。自分を支配し統御できることは人間の最高の喜びであり、意志よりも大きい力を持つことがわかる。苦難が成長進歩の糧となるのを知った嬉しさが、今日の私をあらしめたといっても過言ではない。

大抵の人が苦難を嫌い、喜びや楽しいことを望んでいる。ところが人間の喜びには、心(五官)の喜びと魂(克己)の喜びの2つある。五官の喜びは、眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(臭覚)・口(味覚)・皮膚(触覚)という次元の動物的な喜びである。もう1つは、克己(自分に勝つ)という次元の人間的な喜びである。この2つの喜びのどちらを優先するかによって、私たちの人生が大きく違ってくるといえる。

私は幸いにも青年期に魂の存在に気づき、克己の喜びを最優先に考えるようになっていた。それが戦後の生き方にも反映して、五官の喜びを追求するのではなく、粗衣粗食・清貧に親しむようになった。また南の戦場で、ゴマを振ったように見えた穀象虫の混じった麦飯を3年間美味しく食べた経験から、毒でなければ何でも食べられる特技も身に付け、どんな食べ物でも感謝できる。

大抵の人が五官の喜びに振り回されているが、私の友人は高次元の喜びを持った人がほとんどで、数は極めて少ない。だが、毫(ごう)も孤独を感じない。かつて死という極限の孤独を経験しているので、一人でいることを好むようになっている。五官の喜びに興味が持てず、それらに自分の時間を失うのを好まない、独善主義の吝嗇家(りんしょくか )なのである。

したがって、人目を気にしない自由な振る舞いが多いと思う。唯我独尊といえるかもしれない。我が身に起こるすべての出来事に無駄なことはひとつもない、必要だから与えられている。全部がプラスになり、喜びの糧だと受けとれるようになっている。これからも命の限り、魂の喜びを求めて歩き続けていこうと考えている。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2020年4月)より』

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