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Vol.222 「孤独」

2020/09/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「孤独」とは一般に、心の通じ合う仲間のいないことを言い、「孤」とは親のない児のこと、「独」とは老いて子なき人をいう。一人きりという孤独を示す言葉に「唯我独尊」がある。この世に自分はたった一人きりの取り換えのきかない尊い存在だという意味である。

世の中には、大低の人が孤独であることを嫌っているようだ。孤独を嫌う理由の一つは、お互いが完全に理解し合えないことからくるのではないだろうか。家族でさえも、向き合っているとき妻や我が子が今何を考え、何を感じているのか見当もつかない。まして他人の間では完全に理解し合えないのは当然で、そのもどかしさが、孤独の思いを募らせ仲間を求めているのではないかと思う。

老人の孤独についていえば、究極の孤独である死への恐怖からきているのではないか。誰でも死ぬときは必ず一人になる。またほとんどの人が、死は自分の意志に関係なく、生きている自分に襲い掛かってくる恐ろしい出来事のように思っている。その恐怖がなくならない限り、孤独の不安も消えないだろう。しかし、死への恐れは錯覚であって、少しも恐れることではないと私は断言できる。戦場において何度も死の孤独を味わい尽くしてきたからだ。

死は、生きている間にくることはない。死の直前まで生きており、死の瞬間には既に生きてはいない。つまり、自分が対面することができない死を怖がるのは、ばかげているとしか言いようがない。その例は毎日の生活の中にもある。私たちが就寝のとき、眠りに入る直前まで起きており、自分がいつ眠ったかを知る人はいない。死もそれと同じで恐れることは少しもない。

人は孤独だから寂しいとか、お互いに十分理解し合えないから孤独であると思うのは錯覚である。人間が本来孤独であること、理解し合えないことは、人生を生きる上での厳然たる事実であり人生の基本的な条件なのである。この厳しい条件を弁(わきま)えている人だけが、独特な存在でありながら尊重し合う関係をつくることができ、他を思いやる心や人の気持ちを気遣う愛の兆しを見ることができる。

私が孤独を好む第一の理由は、自分の持つ限られた時間を崇高な目的と自らの成長進歩に用いたいからだ。そのため、時間について私は大の吝嗇家(りんしょくか)で利己的なのである。なんといわれようと、孤独は私にとって不可欠の境涯になっている。他からの掣肘(せいちゅう)が皆無の自由があり、自分がやりたいことに専念できる。思索を深め、読書で知識を広め、文章にすることで創造力を養い、自分を深く見つめるなど、素晴らしい境地を孤独が提供してくれる。

ローマの哲人ルキウス・アンナエウス・セネカは、私たちが時間をいかに無造作に他人に与えてしまうのかに驚いている。金や物を与えることには極めて渋いのに、時間ばかりは何と気前よく人に呉れてやっている。尊い時間をまるでタダのように扱っている。時間には形がなく、眼に見えないから、その尊さが分かっていないのだという。

ただし、孤独になることは、志を持って孤独になったのでない限り、危険なことであることも知っておきたい。群れから離れ自分一人になって、一般の利益のために専念したいものである。「小人閑居して不善を為す」と東洋の古典にもあるように、自分一人になると小人は、とかくろくでもないことを考えがちになる。普段、恥ずかしくて隠しておくようなことでも、一人だと平気でしでかすなど、孤独の悪い面も強調されている。

私は自分の孤独な時間をつくるために、敢えて義理人情を欠いた武骨者になるのを躊躇しなかった。意味のない会合や勧誘、冠婚葬祭の多くはご遠慮申し上げることにした。ゴルフも麻雀も知っているが、やったことがない。最近の歌舞音曲には縁がなく、歌は小学校で習った鳩ポッポと軍歌しか歌えない。箸にも棒にもかからぬ変人といわれるかもしれない。

友人は極めて少ないが、共通の価値観で結ばれており長年変わらぬ交友が続いている。孤独なようであるが寂しいと思ったことはなく、充実した精神的に実りのある時間を満喫している。私の長寿は、この孤独を楽しむ境涯にあるのではないか。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2020年7月)より』

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