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Vol.224 「鈴木大拙に学ぶ人間学」

2020/12/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

今月の課題「鈴木大拙に学ぶ人間学」について、私の僅かな知識と、戦場と経営の体験に基づいて私見を述べてみる。

40年ほど前、大拙の書「日本的霊性」他一篇を読み、貴重な示唆を与えられた。私はそれに触発されて、魂の存在に目覚めることができたと言っても過言ではない。大拙の書がどのように私の標となったのかを振り返ってみたい。

それは、昭和18年(23歳)、戦場の最前線ラバウル基地へ単身赴任することになった時のことである。出発に際して、死を覚悟していたのは当然であった。ところが、貨物船で20日ほどかけて到着した現地は、出発時の覚悟などはどこかに吹っ飛んでしまうほど毎日が死闘の別世界だった。

日を経るにつれ彼我の量的な戦力の差が大きくなり、戦局の悪化は一兵士の私にも感じられるようになった。幕舎に帰ると、戦友のいない空席が目につくようになり、自分も同じ運命にあるのが予測できた。夜になって就寝するとすぐ頭に浮かぶのは、近づく自分の死をどう受け容れればよいかであった。だが、いつも答えが思いつかないまま、眠ってしまうのだった。

ある夜、そのことが気になってもだえ苦しみ眠れなかった。そのとき心の奥から「びくびくせずに、潔く死ね」という声が聞こえてきた。それを聞くなり「そうだ!私の死は祖国のために捧げる尊いものである。男子の本懐これに勝るものはない、進んで前から撃たれて死のう」と、すんなり死を決意することができた。決意した後のすがすがしい解放された気持ちを今でも鮮明に覚えている。

死を覚悟するとは心構えをすることであり、誰でも簡単に覚悟はできる。しかし、死の決意は生きるのを止めることであって、理性で考えている限り不可能といってよい。決意は死の受容であり、覚悟と決意とは月と鼈(すっぽん)の違いがある。私が死を決意できたのは、理性ではなく何か大きな力が働いていたからに違いない。それが、大拙の示した「日本的霊性」ではないだろうか。

大拙は「日本的霊性」という言葉について、縹緲(ひょうびょう)としていて一般に分かり難いが、魂は個人の経験なので分かり易いと述べている。私は「日本的霊性」を「魂」に置き換えてみて合点した。そのことから「日本的霊性」は、魂の働きを指すと考えるようになった。私たちには良心があるが、それは魂の別名である。

さらに、大拙の書と相前後して、文豪レフ・ニコラエヴィチ・トルストイの書「人生の道」を読み、大拙とは主たる部分で考えを一にしているのが分かった。トルストイは「魂は肉体に宿り、心と身体を支配し統御する」と記し、大拙も日本的霊性の意志は宇宙生成の根源にあると述べている。すなわち「魂の偉大な力は、宇宙の意志、大自然の力、神が人間に与えた命に含まれている」と両氏は明言している。

私が戦場で死を決意できたのは、日本的霊性ともいえる大和魂だったのである。戦後も、毎年元日の海で寒中水泳を49年間、93歳まで苦もなく続けられたのも、ひとえに魂の導きによるといえる。生を受けて以来「宇宙の意志、大自然の力である神」によって生かされ、しかも、魂という大きな力を与えられていることに感謝せずにはいられない。

まもなく100歳を迎える私は、もう死を決意する必要がなくすべてを神に委ねている。大拙は、90歳を超えて親鸞の「教行信証」の翻訳に着手するなど、95歳まで生涯にわたって人間学を極めた哲人である。私も大拙を見習って、生きている限り「人間とは何か」について思索を深めたい。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2020年8月)より』

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