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Vol.225 「人間を磨く」

2021/01/05

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「人間を磨く」とはことわざにある「玉琢かざれば器を成さず」を意味している。たとえどんなに素晴らしい才能や素質を持っていても、それを錬磨し伸ばさなければ立派な人間になれぬという。自分の可能性を追求し、自己実現を目指すことではないだろうか。

人は誰でも、自分をより良い人間に仕立てたいという向上心を持っている。また、自分を磨くとはどういうことかも知っており、磨く必要にも気付いている。ところが、意気込んで実行に移しても続かない人が多い。それを意志の強さに起因すると考えてしまいがちである。

世の中には、「意志が強い」と自覚できる人は少なくて「なんと意志が弱いのだろう」と反省する人の方が多いように思う。三日坊主という言葉があるように、良い習慣を身に付けたい、悪い習慣を止めたいと決心をして取り組んでも、いつの間にか尻窄みになっている。それを何とかしようと自分に鞭打つが、結果は元の木阿弥になる。

意志だけでは長続きしない。同じく、楽しくないことが長続きしないのも事実である。例えば、毎日何キロか走るのを何十年も続けている人が少なからずいる。走ることを苦痛に感じる人の眼には「凄い意志力だなぁ」と映るだろう。しかし、本人は走ること自体が楽しく、走り終わった後の快さがたまらない。その快さが尾を引いて一日中気分が良い。だから長続きする。楽しくないことは続かない。

人は誰しも苦痛より快楽を欲する。ただ、何をもって快楽とするかが問題である。その場限りの表面的な快楽もあれば深い快楽もある。私たちの真の快楽は、心の平安を保ち人の道を正しく歩むことの中にあって、「酒や賭け事」式快楽ではない。

心はとかく五官の感覚を喜ばせる快楽を求めるが、魂はもっと次元の高い、真に自分を高める快楽を求める。ゆえに、五官にとっては苦しく心が喜ばないことでも、魂は快楽とすることがある。例えば、味覚を楽しむために舌の快楽を必要以上に求める結果、健康を損ねるが、魂は逆に粗食や節制を好み必要となれば断食さえも快楽とする。その方が気持ちいいし心身にプラスになる。

苦しいから楽しいという例が登山にもある。何の得にもならないのに、重いリュックを背負い、生命の危険さえある困難な山に挑み、汗水垂らしてヘトヘトになって帰ってくる。苦しいから、難しいからこそ登山は楽しい。"困苦即快楽"なのだ。苦しみが全くないなら登山の喜びは半減するだろう。自然の厳しさがゆえに登り甲斐があるといえる。

そして頂上を極め、目標達成したときの「やったぁ!」という快感が魂の喜びとなる。登山家は魂の快感を知っているから、他から見たら苦行のようにしか見えないことに熱中できるのであろう。一度その快感の味を占めると次にはさらなる高みを目指すに違いない。その目標が大きいほど、やり遂げたときの快感も大きい。

魂は、困苦即快楽とする力と達成の喜びを通して、私たちを成長させてくれている。戦後、焼け跡から始めた私の生活は困難を極めた。しかし、戦場で喜んで一命を捨てる決意をし、死と共に過ごした日々に比べると、朝飯前の出来事だった。さらに、困難が成長と進歩をもたらすことに快感すら覚えるようになった。過酷な課題を次々と自分に課し、鞭打ち、統御できる自分を誇らしくさえ思えた。人間を磨き、自分をつくってきたといえないだろうか。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2020年9月)より』

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