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Vol.23 罪悪感とのつきあい方

1998/11/01

今月の質問者:合田 洋之さん(設計第一部)~先日台風10号接近!早朝5:30身じたくする私、妻と2人の子供に小声で「いってきます」、布団に入ったままの妻「死なれんよ」(死なないでねの阿波弁)、合田家では普通です。

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1枚の新聞スクラップを机の下敷きに、挟んでいます。それは阪神大震災の被災者への記事です(今ではすっかり黄ばんでいますけど)。

「燃え尽きない為の8ヶ条」
1. 現実にできることより目標を高く設定し過ぎない。
2. ひとりじゃないことを思い出そう。
3. 燃え尽きちゃいそう・・と思ったら一旦「引く」か「休む」。


8.好きなこと、趣味を大切にしよう。(「こんな時に・・」と罪悪感を持たないで)

生活再建に向けて長い道のりを乗り切る為のアドバイス記事です。

その中で、私も含め日本人が一番苦手なのは8項だと思います。善し悪しは別として、すごく日本人らしい感覚だと思います。罪悪感(すまないなあー)を持たないでと言われても、いろんなケースで罪悪感は付きまといます。私の場合、丸一日高知でサーフィンを楽しみ、その帰路で我が子と同じくらいの子供を乗せたファミリーカーと横並びになった時(家庭への罪悪感)、休日に設計フロアーの電気がついているのを見た時(休み返上でがんばっている人への罪悪感)、真っ白なホワイトボードに退社札を一番に上げる時(残業者への罪悪感)、台風接近時、波があるからと言って半日有休申請を上司にする時(半日仕事への罪悪感)など・・。

ここで、罪悪感を持つがゆえに行動できない人、行動し感じたる罪悪を、家庭への愛へ、仕事への情熱へ+αで返還できる人、に分かれてくると思います。私は常に後者でありたいと思っているのですが、いき過ぎもあり、バランスが取れないことも多々あります。

日本人がゆえのこの感覚(欧米人には無いと思うのですが)と名誉相談役はどのように付き合って来られたのですか?

また、クレーンは、4本の足のバランスが取れていると、どこを向いても同じ性能が出せます。一本でも弱い足があればその方向では、その足が絶えうる性能しか出せません。いくら他の足がすごくても、全周性能は一番弱い足に合わせざる得ません。せっかくの強い足がスポイルされます。人間も4本の足(仮に家庭、社会、仕事、自分)を持っているとすると、極端に弱い足が無く、どの方面を向いても同一性能で倒れること無く安定しているのが理想だと思います。設計開発業務も(性能、品質、コスト、生産性)同じだと思います。長年に渡り会社の4本の足(開発、生産、営業、サービス)を高次元でバランスされてきた名誉相談役に、その極意を御教授願えたらと思うのですが・・今、設計はバランスを求められています。


多田野名誉相談役:10/10に満78歳の誕生日を迎えました。

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あなたは、趣味を大切にしたいが、まわりのことを考えると少し罪悪感を覚えるので、どのように心の整理をすればよいのかに心を痛めているようですね。このような悩みはあなただけに限らず、私たちにとっても重要な課題でもあります。

私達の一生は、大別して、生理的時間(食べる、眠る、排泄等)、と仕事と余暇の時間の総和であります。この仕事と余暇をどう過ごせばよいかを知るには、自分の一生をどう生きるか、なんの為の人生かということを抜きにして答えは出てこないのではないですか。生きる意味がはっきりしてこそ、仕事と余暇をどう過ごせば良いかが分かってくるのです。

結論から言いますと、第一に、仕事(働くこと)も余暇も同様に、人間が生きていく上に必要な自然の営みであるという大きな意味があります。人は余暇だけでも、仕事だけでも生きてはいけません。また、余暇は仕事した後の余った時間ではありません。余暇は人間に必要なゆとりとも言うべきもので、ちょうど自動車のステヤリングに遊びがあるのと同様に、なくてはならないものです。だからその余暇は、私たちの働きを円滑にする為に必要な、レクリエイションとリフレッシュに用いなければ意味がありません。

ですから、余暇を仕事の苦痛の代償として求めるならば、その余暇は逃避となって、刹那的、享楽的となり、麻薬のような役割しか果たしません。余暇だけが楽しく、仕事は辛いものという価値観が生まれ、人生を生き甲斐の無い詰まらないものにしてしまいます。

自由業の芸術家、作家、学者などは、あまり仕事と趣味や余暇の区別なしに全力で取り組んでいます。彼らは、創造の苦しみが大であればあるほど、完成の喜びも大きいはずです。今後の私たちの生活も、彼らのように、仕事の趣味化が進み、楽しみながら仕事が出来るようになれば最高だと思います。

反対に、余暇を意味なくだらだらと過ごす人は、仕事にも熱中できないばかりか、余暇を享楽で紛らす為に、いたずらに金と時間を費やし、その費用を捻出するために働かざるを得ないという哀れな姿になって、余暇は返ってその人を堕落させ、苦しめることになります。

余暇を創造的に意欲的に過ごせる人のみが、仕事も創造的に過ごせる人だと言えるでしょう。生きる意味を知り、人生の目標があればこそ、仕事も余暇も楽しく素晴らしいものとなります。仕事と余暇のバランスの問題ですが、これは物理学のような計量的ではなくて、質的に考えるべきです。つまり、時間の長さで考えるのでなく、どれほど有意義な価値ある中身であるかにあって、量的に計れるものではありません。

仕事も余暇も、たとえ短時間であっても、充実した価値ある内容があれば良いではないですか。したがって、あなたが言うバランスに気を遣うのは無意味です。自然にバランスのとれた行動が出来るようになります。罪悪感の残るような余暇をいくら持っても、楽しみは半減です。思う存分、力を出しきって過ごせる余暇にしようではないですか。

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