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Vol.35 感動の体験

1999/11/01

今月の質問者:宗時 文子さん(海外事業部)~秋いえば、芸術の秋、食欲の秋、スポーツの秋などいろいろな過ごし方があるかと思いますが、今年は少し背伸びをして、芸術の秋に浸りたいと思っています。特に秋は様々な場所で美術展や芸術展等が開催されるので、大好きな季節です。

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先日、上野の国立西洋美術館で開催されているオルセー美術館展を見に行きました。いつかフランスを訪れたとき、一度は行ってみたいと思っていましたので、とても開催されるのを楽しみで、ゴッホ・ゴーギャン・マネ・モネなど、印象派と呼ばれる画家の200点近くの傑作を見ることができたことにとても感動しました。絵画や彫刻に関わらず、言葉・詩や音楽・写真等、また普段の生活の中にある何気ないものに対しても、感動することをいつまでも忘れず、大切にしたいと思っております。

名誉相談役の「航海日記」を拝見し、さまざまな感動を経験なさっていらっしゃるかと存じます。名誉相談役のお心に残っていらっしゃる、感動のお話を教えてください。

また、どのような絵画がお好きですか?お好きな音楽・心に残っている言葉についてもお聞かせいただけたら幸いです。お願い致します。

(補足)ちなみに私が好きな絵画は、ゴッホの「星降る夜(星月夜)」です。初めて見ることができたときに本や雑誌では、感じられない、静寂・混沌のある夜の世界にプラスされた躍動感と情熱の激しさに感動したことが忘れられないからです。何時間も見ていたような気がします。心に残っている言葉は、学生時代の恩師の「いつか本を書くことができる人間になりなさい」です。しかし実現するには難しいとしみじみ感じる毎日です。


多田野名誉相談役・・・10/23、愛知中小企業家同友会主催のフォーラムにて講演をした。最後に行った開脚パフォーマンスは、思いのほか受けがよかった。

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あなたの絵画に対する造詣の深さに感心させられるあまり、ふりかえって我が身にこれといった趣味の無いのを恥ずかしく思う。しかし、生来、美術に親しむ繊細な情感が育つような環境に恵まれなかった事も事実である。

工業学校卒業後すぐ海軍に入り、続いて大東亜戦に参加し、終戦後直ちに小企業を起して以来、会社の経営に忙殺され、役職を退くまでは、趣味等に心を用いる余裕とて無いまま今日に至っている。当然無芸大食はもとよりマージャン、カラオケ、ゴルフ、ダンスすら出来ない唐変木になってしまったが、美しい絵を見たり、静かなよい音楽を聴くのは好きだ。

無趣味でデリカシーのない私にも、生涯忘れる事の出来ない多くの感動した出来事があるのでその一部を述べてみたい。その一は、「鉄挙の教え」である。

昭和14年、私は海軍航空整備予備練習生に志願入隊し、1年間の教育訓練を受けた。この制度は1年間の教育後は予備役に編入され、通常の義務兵役を免除される他、航空機機関士の免許を与えられる等の甘言につられて、第一期生となった。入隊初日は私達はお客様扱いだったが、翌日からは、様変りの厳しい目の廻るような軍隊生活が始まった。僅か1年間で有能な技術下士官を育てるべく、その指導は猛烈を極めた。「動作が鈍い、娑婆っ気が抜けていない、気合が入っていない」等と叱咤され、熱のこもった鉄拳の雨が降る日の絶える事がなかった。

それまで私は親からも撲られた事がなかったので、毎日のように制裁を受ける自分が情けなくて、毎夜ハンモックに入ると、口惜し涙で枕をぬらすのだった。そんな夜が1週間程続いた頃、「お前はそれ位のことで泣くようで、これからの1年間どうするんだ、そんな情けない弱虫で一人前の軍人になれると思うのか」という反省が生まれてから、「ようし、これからいくら撲られてもひるむような俺ではないぞ、いかなる理不尽と思える制裁を受けても決して弱音は吐かないぞ、むしろ積極的に制裁を受け入れる強い自分を造るんだ」と想い始めた。以来、毎日の制裁のお達しが無いと張り合いが無くなり、拍子抜けしてしまうのだった。人間は意識を変える事によって、物事の受け入れか方が変わり、苦難も喜びに変えられることを身を以って体験出来たのである。

やがて1年間の練習生過程を終え、待ちに待った退隊の日がやってきた。全員隊伍を組み、教官達に見送られて隊門を出た途端に涙が吹き出した。「我ながらよくやった、これでやっと一人前の海軍軍人になれたんだ。もうどんな困難にも耐えられるぞ」という自信と、嬉しさにしばし鳴咽が止まらなかった。隣の同期生も同じ思いなのか、目を真赤にしてうつむいていた。私の20歳の出来事である。僅か1年間だったが、私を心身ともに逞しい人間に造り変えてくれた恩は、深大であると共に、私の生涯の財宝であると思っている。あの時、精魂を込めて、鉄拳をもって教えてくれた教官に会うと、今でも感謝の涙がこみあげてくる。

その二は、「傷ついた兵の最後」である。それは私の戦場の体験の一コマであって、とても感激とか感動などの言葉では表せない程強烈なものだった。

ラバウルの毎日の厳しい戦闘中は、生死の事など考える暇もなく、もう無我夢中で這い回っていたとしか言えない。恐怖と緊張の連続だった。そして多くの戦友が虫けらのように声も無く死んでいった。自分も彼らと同じように、死なねばならぬ運命にある事を胸に問いながら、夜が来ると「今日は無事だったが明日は俺の番かも分からんぞ」と言い聞かせ、疲れて眠ってしまうのだった。

半年ほど居たラバウルの戦場も、昭和18年末頃には米空軍の攻勢に押され、我が戦闘機隊もサイパン島に後退することとなった。私は翌日出航の2隻の貨物船に、250名余の隊員と共に便乗の指示を受けたが、さあて困った。当時ラバウルは制空権、制海権ともに米軍の手中にあり、出航した船は凡て沈められ、目的地に着いた例がないと言われていた。

私はその頃、戦場にも馴れ度胸も据わっていた。どうせ遅かれ早かれ死なねばならないのだ。だから弾に当って死ぬのは本望だと思っていたが、乗船の前夜、「もし、船が沈めばどうして死ねばいいのか、太平洋の真中で泳ぎ疲れ、塩水を飲んで窒息死する以外に死に方はないのか。苦しいだろうなあ。」そんな事を考えている内に乗船の時刻が迫って来るのだが、その事が頭にこびりついて明方近くになっても眠れない。

少しうとうととしただろうか、フッと頭にひらめいた事があった。それは水底深く潜っていくと、水圧の為意識不明(いわゆる潜水病)になる事である。幸いに私は潜水は得意の技、いざという時にはこの手で死ぬならお安いご用だ、と思うと、急に胸のつかえがとれて泥のように眠ってしまった。

そうは言うものの、いざ乗船のするとなると、万が一でもいい無事サイパンに着いて欲しい、と祈る思いで勇躍ラバウルを出航した。ところが案の定、翌日には敵機の爆撃に会い、僚船は被弾して、見る見る沈んでいった。しかし、2日目には我が船にも敵潜の魚雷が命中し、沈みはじめた。私は高い上甲板から思い切って海に飛び込んだ。もう助からないと思った時は、あの手で死んでやろうと、体力を温存しながら波間に漂っていたが、3~4時間経っただろうか、味方の駆隊艦が現れ救助された。その時、助かってよかった、という感動は不思議になかった。少しばかり死期が延びたに過ぎないのだと思った。

助けられた隊員の中に、左足要切断の重傷兵がいた。助かった兵達と「明日の朝サイパンに着けば完全な治療が出来る、それまで頑張れ」と言い、皆で軍歌を歌ってその兵を励ました。時が過ぎ、周りの兵隊も昼間の疲れから、歌声も次第に低くなり、ふと気が付くと、先程まで共に歌っていたその兵の声もない。サイパンに着くのを待たずに逝ってしまった。

私は彼が、これ程の重傷を負い乍ら、救助されてから死ぬ迄、痛い、苦しいの一言も言わず死んでいったその死にざまを見て、自分がもし同じ状態に置かれたら、その兵のように弱音を吐かずに歌い乍ら死んでいけるだろうか、そう思うと、人間の精神力の凄さに感動せずにはおれなかった。その事があってから、私はどんな痛みや苦しみに会おうとも、絶対に弱音を吐くまいと心に誓ったのである。それはかつて頚椎損傷時、42日間ベッドに縛り付けられて受けた矯正治療の時と、腸腫瘍の2回の開腹手術にも、一言の弱音も吐かず睡眠薬なしに眠る事が出来たことで証明された。

もし、青年時代にこのような大きな感動がなかったならば、私の現在は無いといっても言い過ぎではない。どうかあなたも生来の豊かな感受性によって、素晴らしい感動を享受され、稔り多い人生を獲得されるよう祈るばかりである。

航海日誌