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Vol.51 人事評価

2001/03/01

今月の質問者:泉谷 淳司さん(技術研究所)~先日30歳を迎え、後70年をどうやって過ごそうか、またわくわくし始めた今日この頃です。

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この質問について、企業のトップとしてご活躍された名誉相談役のお考えはたいへん興味深いと考えております。失礼かもしれませんがよろしくお願いします。

サラリーマン社会では上司と部下という上下関係が必ずあります。部下は上司に認められ、仕事を任せられたり出世していく訳ですが、その基準がその同僚や更なる部下からみて、必ずしも適任かどうか疑わざるをえない場合があります。

このごろよく聞く「実力主義」はいいことだと思うのですが、その基準や結果が誰からも(特に同僚や部下から)納得できなければ、言葉だけが空しく響きます。

そこで、提案なのですが、昇進、配属、考課などの決定資料に同僚や部下からの評価を加えるというのはどうでしょう。下の人間に認める力がないのではとお思いになるかもしれませんが、本当に全く力がない部下なら次の世代は会社がそのまま終わってしまいます。

また、その評価の時点で足の引っ張り合いがあるようならそこまでの会社でしょうが、今の評価制度でも成り立っているのですからさらに悪くなるようにも思えません。サラリーマン社会に反しているのかもしれませんが、このような意見はいかがでしょうか。


やっぱり田舎モノだね。先日初めて東京タワーとディズニーランドに行ってきた。一日中、何度も長蛇の列の並んで待つことが多く疲れたが、忍耐力の養成という大きな収穫があった。(多田野 弘)

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大変勇気のある提案を下さって感謝している。私も昔、同じことを考えたことがあったが、結論から言ってあなたの提案は、いかにも民主的で合理性があるように思うが、もろ手をあげて賛成するわけにはいかない。そのわけは。

人間が人間を科学的合理的に評価することは、極論をいえば不可能なことである。正確な評価は神のみがなしうることである。

わが社にも明文化された評価基準はあるが、だからといってそれで評価を完全に明示できるというものではない。だからといって評価は不必要というのでもない。参考にはしても、評価に惑わされてはならないのである。

あなたが言う、同僚、部下に評価させるとすれば、その評価基準を何で示すか、その根拠をどこに置くか、またそれを量的に把握する方法があれば教えて欲しい。また、同僚、部下は、自分以外の昇進や新配置にはどちらかといえば、否定的である。余程抜きんでた人間でなければ、良い評価は与えられない。その評価に依存するならば昇進、配属は実行不可能となる。とかく人間は(私も含めて)他人が良くなるのを羨む傾向があって、出る杭を打ちたがり、足を引っ張ることに快感を覚えるが、自らの被害者意識によるコンプレックスの仕業であることを心すべきである。

そして、他人の欠点はよくわかるが、自分の欠点にはなかなか気がつかないから、他人の評価は厳しく、自分の評価は甘くなりがちである。また、納得しないというのは、自分の考えと違っている時に起こるのであって、全員が納得する人事評価も現実にはありえない。

上司も、昇進や配属させる人間が同僚や部下からどのように評価されているかがわかっていないようでは上司の資格はない。上司は必要と思えば、評価を度外視して行う抜擢人事がある。部下が昇進や新配置によって発奮し、隠れた能力を発揮してその職責を全うしてくれることを期待して行う場合である。もし、部下を誤って過大評価して昇進または新配置につけた場合、その部下はおそらく職責を果たすことができず、上司ともに以後の昇進は望めないだろう。

また、会社は組織で動いている。組織に合わせるために、能力その他に必ずしも適任でない者であっても配置する場合がある。

人は誰でも、よく思われたい認められたいという思いがある。だから不遇な境遇に置かれた時に不足不満が起こり、他と比較してみたり、他を恨んだりしがちである。しかしそれを逆手にとって、不遇であればあるほど、その境遇を踏み台にして自分を磨き、実力を蓄積するよい機会を与えられたとして、発奮努力する事によって、必ずや周囲から認められ、その集団になくてはならない存在になるのは間違いない。

これまでの大成功者や偉人にはその例が多く、成功や高い地位はそれらの結果であって、目的ではなかったことである。十分に意を尽くしていなくて納得してもらえないかもしれないが、許しを乞う。

航海日誌