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Vol.59 人生の分岐点 ~トパーズの月に友の顔浮かぶ霜月

2001/11/01

今月の質問者:佐藤 琢哉さん(制御技術部)~香川に来てはや2年半。自然が大好きなので四国がとっても気に入っています。しかし、うどんがあまり好きではない私にとっては讃岐うどんよりも、徳島ラーメン♪♪♪

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人生の中には、いくつもの分岐点があります。

私の今までの人生の中での大きな分岐点と言えば、大学進学、初めての一人暮らし、就職、地元を離れての生活などでしょう。これから先の大きな分岐点には、結婚や子供の誕生など期待の大きい分岐点もあれば、家族との死別といった悲しい分岐点もあるはずです。最終的には自分自身の死も人生の分岐点と言えるもしれません。

私が思うに、人生の分岐点には、自分で選択する分岐点、自分の本意でなく他人によって決定される分岐点、自他共に選択できない分岐点(運命と言うべきでしょうか)などがあり、また、それらの分岐点には二者択一、三者択一、もしかすると四者択一の選択をしなければならないこともあるでしょう。

まだまだ先の事は分かりませんが時々こんなことを考えていると、将来に対して不安と期待の入り交じった複雑な気持ちを持ってしまします。(もともと楽観的な性格なので、気が滅入ってしまうことはあまりありませんが・・)

そこで質問ですが、今までに経験された「人生の分岐点」に関する思い出や価値観などを教えてください。


次はいつ会えるかと思う人恋しい秋が来た。会うは別れの始まりなりとはよく言ったものだ。(多田野 弘)

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あなたは大変よいことに気付かれたと思う。人生の分岐点に対する考え方を探求されようとしている姿勢に、まず敬意を表するとともに、私の答えが少しでも参考になれば幸いである。

私にも人生の分岐点といえるものが何度かあったが、その中でも最大の分岐点は丁度あなたと同じ年頃だった。第二次世界大戦中に最大の航空戦が行われた、ラバウル航空基地にいた時のことである。

連日百機を超える空襲があり、地上勤務の私たちの中にも次々と戦友が死んでいった。その姿を見て「あー、俺も彼らと同じように死ななければいけないんだなあー」と思ったらとても怖くなったが、そのうち、どうせそう長くはない命、いずれ彼らと同じ運命にあるのなら、潔くこの世とお別れしようじゃないかという気持になってきた。そうなると、もう弾丸が飛んでくるのがそれほど怖くなくなってきたのである。「ようし、この戦場で死のう、ここが俺の死に場所なんだ」と自分に言い聞かせた。それ以来、人間というものは、命を懸けた時その命は、何物にも囚われない、自由に生き生きとしてくるのだということを思い知った。このことが分岐点となって、私という人間を大きく変えてくれた原動力となっている。

よく言っていることであるが、人間は誰でも無限の可能性を持って生まれている。即ち、大聖人にも大悪人にもなれる自由を与えられている。その可能性をどう実現するかは、あなたの言われるように分岐点における選択と決定によって決まるのは間違いない。

私たちが行動を選択する時、そのプライオリテイは自分の持つ価値基準で判断するはずである。その価値基準は、人生の目的は何かによって決まる。自分にとって人生とは何なのか、何を実現することが自分の喜びとなるのかということを、はっきりさせることである。

人間が生きるということは、ただ単に生き長らえることではない。何の為にこの命を使うのか、この自分をどう生かすかということである。人間は何か打ち込むものを持ったとき、生き生きとして輝いてくるのである。「俺はこの為に自分の人生を費やしても惜しくない」といえるものを持つことは、自分の心を本当に心底から満たしてくるから、心は燃え続けて止まることがない。余計なことは考えないし、迷うことがなくなる。選択した行動の結果には後悔も疲労も残らない。自分を生かすとは、自分の持つ資質天分を社会に役立たせることによってその存在価値が評価され、自分が最大限に活かされるのである。

あなたのいうように人生には大きな分岐点もあるが、毎日の行動の中にも小さな分岐点がある。大きな分岐点には誰でも慎重に考えるが、日常のことにはあまり考慮しないのが通常である。私はこの見過ごされがちな日常の行動の選択、どのような一日を過ごすかこそが、その人の人生を創造するといっても言い過ぎではない。

なぜ私たちの日常の過ごし方が、その人の人生を創るのかといえば、私たちは毎日何らかの行動をしているが、その行動には必ず目的がある。その目的を達成する為に具体的な方針や目標を決め、その目標に向かって行動が始まるのであるが、その行動は繰り返されるところから期せずして習慣を作り、習慣はその人の人格を創らずにはおらない。人格はその人の運命をもたらし、運命は人生を創造することになるからである。

私はこのような人生観に基づいて毎日の行動を律している。たとえば、毎朝アラームなしで5時ごろ起床し、ジョギングとプールでの一泳ぎを40年余り続けている。また、正月の寒中水泳も30年近く続けている。このような馬鹿げた行動は、そうすべきだとかそうあらねばならないというのでなく、そうせずにおれないという、止むに止まれぬ命の躍動といえる性質のものであって、一日でも怠けると「おまえの人生はもう終わりだよ、足元の明るいうちにあの世に行ったらどうですか」と言われているような、自己嫌悪に陥るのである。それゆえ未だに止められないでいる。

「自分の人生の目的を掴むことによって、命が生き生きと燃え立ち、灰になるまで尽きることが無い」と聖賢がいったが、私も倒れるまで今の生き方を止めることはないだろう。私がこのような生き方をするようになった源流は、20代の人生の分岐点にあったことは間違いない。

航海日誌