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Vol.61 いかに生きるか

2002/01/07

さぁ、新しい年が始まりました。あなたはどんな年にしたいですか。特別なことはなくても、お正月というのは、すがすがしい気持ちになりますね。なお今回はお正月特別企画で、いつものQ&A形式をお休みし、多田野弘より2002年初頭のメッセージをお届けします。(編集担当:横山)


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「いかに生きるか」なんて言い出すと、大方の人は怪訝な顔をする。禅坊主の繰言か、哲学を学ぶ学生の話題ぐらいにしか思えないだろう。

生きるということを、空気のあるのが当然のように何の疑問も感じず、私たちの生死を通して深い意味が含まれていることに気付く人はまれである。生きる意味を考えることが、人生をどれほど大きく変えるかは計り知れないのである。

生きる意味がハッキリすれば、生きる目的も決まってくる。勉強も仕事も健康管理もこのためだ、病気が辛くても、人間関係に落ち込んでも、競争に敗れても、「大目的を果たすため、乗り越えなければ」と"生きる力"が必ず湧いてくるはずである。ニーチェは、「なぜ生きるかがわかれば、人間は苦悩を欲し、苦悩を捜し求めさえする」といっている。人生に苦しみは絶えることはないが、生きる目的を知った人の苦労は、必ず報われる苦労となる。人生は素晴らしいと言う人もいれば、何をやってもむなしいと言う人もいるが、真の「人生の目的」を知っているか、いないかの違いと言えるだろう。

「金さえあれば」「地位が得られれば」「家が持てたら」などなど。人生の目的を、金や物、地位や名誉を得ることにあるとするならば、それを得られないのが苦しみとなり、それらに恵まれた人生は、喜びに輝いているに違いないと思うが。土地や家が無ければ、それらを求めて苦しみ、あれば管理や維持のためにまた苦しむ。財産、名誉、地位、家族、これが無ければ無いことにを苦しみ、有ればそれを失うまいとして苦しむ。どれほどの財宝や権力を手にしても、本当の苦悩の根源を取り除かない限り、人生の重荷は降ろせないのではないか。

本当の苦悩の根源を取り除くには、いかに生きるか、何の為に生きるかを知らねばならない。即ち、この為なら自分の一生を棒に振っても惜しくないと思えるものを見つけることにある。それは一言で言えば「死を見つめる」ことである。なぜ生きる意味を知るのに、死を見つめなければならないのかといえば。生きることだけをいくら考えても、生きる意味はわからない。死を見つめることによってのみ、はじめて生きる意味を知ることができるからである。人生とは生きていくことであるが、それは同時に死に向かっている、つまり、一日生きることは一日死に近づいていると言える。

私たちは、死を考えることを悲観的で消極的なように受けとめているが、むしろ、逃れられない死を何とかして避けようとすることこそが消極的なので、自分の死を真正面から見つめて、そこに到達する道順を考えることが、積極的に自分の人生を創造することになるのではないか。何のために生きるかは、何のために死ぬかと言うことと同じである。

人間が死を意識する時、その生は最も生き生きとしたものとなって熱意を帯びてくるといわれている。「何の為に生きるか」とは「どう役立つか」ということを示す例として、1952年黒澤明監督の名作「生きる」に見事に表現されている。自分が死に至る存在であることに気づくことが、私たちの運命を生き生きとしたものに変えてくれることを証明している。

人間が死ぬ運命を持っていることは子供でも知っているが、私が言いたい「死を考えること」とは、そのような漠然とした知識ではない。私たちの死は予告なしに突然やってくる、言うなればそれが明日かもしれない。その日を延期する事も早めることもできない。だから、今日という日は二度とない、かけがえのない貴重な一日であると受けとめることである。即ち、たとえ明日この世とお別れしても、何の悔いも残さないような今日一日を過ごすことである。そこから、さればどのような生き方をすべきか、何の為に生きるかに気づかせてくれる。

これから始まる新しい年をどう生きるか。昨年以上の厳しい状況が続くと思うが、どのような状況になろうとも、私たちにとって必要な試練であると受けとめるならば、さらなる進歩向上が約束されるだろう。人間は苦難を耐え忍ぶことによってのみ成長し得る。このまたとないチャンスを逃がす手はない。

航海日誌