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Vol.65 神の存在とは ~鯉のぼりはためき 山は緑

2002/05/01

今月の質問者:平井 孝則さん(企画管理部)~四国からは憧れの北アルプスも南アルプスもあまりにも遠く、今は、アガシとヘンマン、ロディックになれる日を信じ、登山リュックをテニスラケットに代えて奮闘しています。でも今年は、オーウェンとフィーゴ、テュラムにも浮気しそう。

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先日、祖父が亡くなりました。祖父は戦時中、満州で転戦し部隊は全滅、祖父が部隊でただ一人の帰還兵であったそうです。「帰って来られたのは、出征中毎日、祖母が神社へ御参りしてくれたからだ」と、幼少のころによく聞かされたのを思い出します。

私には祖父のような経験は、幸いにもありませんが、神に祈るということはよくあります。それが、いつもの道の途中にある名も分からない神社であり、道端の古びた地蔵であり、山の頂きにある小さな祠であっても、その前で手を合わせるだけで、心が落ち着き、安らかな気持ちになれるのです。私にとっての神とは(そんなことを言うには若輩ではありますが)心の重荷や不安を少しでも和らげてくれる存在でしょうか。

今、信じる神の違いで、諸外国では悲劇が繰り返されています。彼らにとっての神とは、私達、少なくとも私にとっての神とは大きく違うとは思います。ですが、神という存在を生きていく上でのよりどころとしている点で、出発点は一緒のはずです。そうだとすれば、これは非常に残念なことです。

とても難しい質問ではありますが、今までいろいろなご経験をされていらっしゃった最高顧問にとって、神とはどのような存在でしょうか?お聞かせ頂けたら幸いです。


庭の芝が緑を増してきた。これから手入れが大変だが、芝生の緑で心が癒されるし、老人の運動にもなる。自然の恵みは有難い。(多田野 弘)

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あなたの質問を見たとたん、私は神に祈りたくなった。こんな難しい問に答えられるだろうかと思ったからだ。あなたの質問は私達にとって大変重要な意味を含んでおり、また誰もが知りたがっている。しかし、具体的にその存在を証明できないのは、私達が見たり、聞いたり、考えたりする中からはその存在を知ることはできない。それは「気づく」かまたは、盲目的に信ずる以外にないからである。

私が「多分これは神の仕業ではないか」と思ったのは、戦後に復員して、高松の我が家があったと思われる焼け跡に茫然と立ち尽くしていた時のことである。今こうして立っている自分は何者か、亡霊ではないのか、とっくに死んでいるはずの俺が、こうして生きて故郷の土を踏んでいるのはどういうことなのか。生きている自分が不思議に思えてならなかった。同時に、多くの戦友と共に死のうと誓い合った筈の自分が生きていることに、後ろめたい気持ちも少しあった。

やがて、今あるこの命は、神であるか何かは分からないが、きっと新しく与えられた命に違いない。そう思うことによって初めて、納得ができ落ち着くことができた。そうなると思い当たる節が次々と浮かんできた。

南東太平洋の島々でのことである。幾度も、我ながらよく闘ったと思う。それにしても、よくぞこれまで生きてこられたもんだ、もう年貢を納めてもいい頃だ、この戦いで果てるなら本望だと、遮二無二闘ったが、気がついたら傷一つ負わず生きていた。一命を投げ出したからこそ、神が救ってくれたとしか思えない。あなたの祖父もきっと同じ心境だったに違いない。

新しく授かった命を知ったことから、自分が生まれたことも、生かされていることもすべて神の配剤であることを知った。親がいくら産もうと思っても産まれないし、産むまいと思っても生まれてくるのが人間の誕生である。親は子が生まれるための肉体的条件は作るが、生命を創ることはできない。親の意志でも自分の意志でもないのにこの世に生まれてきたことを考えると、ますます私の命は与えられた命であり、人間の図り知ることのできない、この大自然の創造主(人は神、天ともいう)の配慮によって生命を与えられ、しかも生かされているとしか言いようがないのである。

私達は生まれたことだけでも、神秘の世界の奇跡の出来事であるとしか考えられない。(生命の不思議については、Vo.56「超常現象について」にも書いているので、興味ある方はご覧いただきたい。)私が50数年前、自分の命は与えられて、預からしてもらっていると気づいたことは間違いではなかった。人間はもとより大自然の生物である、植物、動物も生あるものはすべて、大自然である神の配剤によって生滅を繰り返しながら、発展していくものと考えている。

今、信じる神の違いが諸外国で悲劇となって繰り返されているが、自分達の信じる神が唯一絶対のもので、その信じ方が深いだけ、他は邪神であると考えてしまう。そこから邪神を信じる人達を排除すべきだ、という発想が生まれてくるのかと思う。

何れの神も基を質せば一つである。富士山の頂上が一つでも、麓で見れば違って見えるのと同じである。神はすべての生物が、適者生存による生成発展を望んでおられるはずである。大自然の摂理(神の思し召し)に背くものが滅びるのは自明の理である。

よく私達が神社などで拝むのは、殆どが災難よけ、合格祈願、宝くじ当選などの頼みごとが多いが、そんな虫のいい頼みを適えてくれる神はどこにも存在していない。神の存在を知る人は、誰もが生かされていることに感謝し、人事を尽くして天命を待つ人である。つまり、なすべきことをし尽くして、自分の運命を神に委ねることのできる人である。そして、心の重荷や不安のない、大安心の喜びに満ちた境地の人間になれるのである。

私も週末には必ず、ジョギングの途中にある神社に立ち寄って拝むことにしている。願うことは何もない。ただ、生かされていることを神に感謝するだけである。私達が神前で手を合わせて頭を垂れる、いわゆる拝む姿勢は、人間の一番恭順な心を形に現しており、自分の無力さを神の前に示し、無条件で従うことを形で表現しているといえる。したがって、もし私心を捨て、神の前に自らの運命を委ねられるならば、神の存在を信じたといえるのではないか。

航海日誌