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Vol.73 生き甲斐と死に甲斐 ~ペリリュウ戦跡を訪ねて~

2003/01/07

新年明けましておめでとうございます。新しい一年の始まりにあたり、今回は多田野弘よりメッセージをお届けします。お正月が来るたびに、いく度決意を新たにしても、いつの間にか日常に流されてしまっている私ですが、今年こそ・・!と力がわいてきました。
そして今年は当コーナーが誕生して7年目となります。今年も力強く、時にはピリリと辛味の効いた回答をお楽しみに!【編】


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戦後58年を経て、かつて私の死に場所はここと決めていたペリリュウ島を尋ねてみた。

その当時、必死の覚悟で駆けずり回った飛行場も、何度もグラマン戦闘機に銃撃されその場に這いつくばった滑走路も、昔のままだった。懐かしさに思わずコンクリートに頬ずりしたい衝動に駆られた。

周辺の椰子林にはゼロ戦の残骸が放置されていたので、操縦席に上がって見て、機と共に逝った搭乗員に想いを馳せ合掌した。同時に当時の戦況や自分の行動がありありと蘇ってきた。

1942年7月、わが201航空隊はラバウルで約半年間、優勢な米空軍と互角に闘い多数の優秀なパイロットを失った。隊は機材の補給と搭乗員の補給練成のためサイパンに転進したが、二ヶ月後、急遽派遣された空母千代田に便乗ペリリュウ島に移動した。その直後忘れもしない3月30日、米機動部隊が来襲、わが戦闘機隊は20数機が邀撃に飛びあがった。しかし、衆寡敵せず全機未帰還、翌日グアム、テニヤンなどから応援に駆けつけた52機も、その日の夕刻までに全滅し完敗した、両日の戦死は地空合わせて246名を数えた。

その間私は、邀撃に上がる機体に燃料と弾丸を搭載するため、部下を督励して滑走路を駆け巡った。私はこの滑走路こそ自分の死に場所だ、ここで死ねるなら本望だと思って死に物狂いで奮闘した。刀折れ矢尽き全機を失った無抵抗のこの島に、米軍上陸は火を見るより明らかである。私たちは敵上陸に備えて、海岸の砂浜に蛸壺を掘って夜明けを待った。やがて、水平線の向こうから朝日が顔を出してきたが何も見えず、波の音しか聞こえない静かな朝を迎えた。

今、その浜辺に立って当時の出来事を思い出していた。ラバウルを振り出しにサイパン、トラック、ペリリユウの各戦場を闘っての感じでは、どう見てもそう長い命ではない。それにしても、一旦国に捧げた命ではないか潔く死のう、この闘いで死なずば他に死ぬ時はないぞと、改めて自分に言い聞かせた。思えばよくぞここまで生きてこられたもんだ。もう年貢を納めてもいい頃だとつくづく思っていたが、敵は上陸して来ず、又もや私は死に損なってしまった。

戦争を礼賛するつもりはないが、この青年期に過した戦場の体験は、私の人生の屋台骨となったことは云うまでもない。この戦争という切羽詰った状況から逃れられない自分の運命を、肯定的に受け入れたことによって、私は計り知れない偉大ななにかを得られたことは確かである。あの辛く悲しい惨めな思いは二度と味わいたくないが、運命というのはそういうもので、こちらの選択不可能な出来事なのである。

好ましくない運命を呪うか、それを肯定的に考えるかによって、その運命の岐路が決まるといえる。運命が不可避なら進んで引きうけるしかないではないか、運命によって苦悩することから精神的に成長できるのである。また、好ましい運命の訪れは喜ばしいことには違いないが、それを求め続けることによって、私たちの大事なものが失なわれていくことに気づかねばならない。

昔から「捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というが、自分に降りかかった運命を呪う気持を捨てることによって、私達の精神は浮上し、昇華させてくれるのではないか。私にとっての精神的な成果とは、あの時に得た死に甲斐が、実はその後の生き甲斐となっていることである。そこから、死に甲斐のある生きかたは同時に、生き甲斐ある死に方であることを知ることができた。

要するに、私たちの身に起こるすべての出来事には必ず意味が含まれていて、必要だから与えられたのであると受け取れるならば、人間として大きく成長させてくれるのではないか。

「門松や 冥土の旅の一里塚 目出度くもあり 目出度くもなし」 (一休)

航海日誌