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Vol.8 信じるということ2

1997/08/01

信頼というのは誰もが望んでいる人間関係である。しかし、その信頼関係はどうしたら創れるかを分かっている人は少ない。それを分からなくしているのは、信頼が人の心と心の結びつきようにあるからである。

私たちは五感覚(視、聴、触、臭、味、)でキャツチできないものを、なかなか認めようとしないものである。それでも、人間が心を持っていることを否定する者はいない。

信頼とは、掴まえ所のない人の心を、どうすれば結び付ける事が出来るのかと言う事である。例えば[あなたを信じます]と幾ら叫んでも、信頼を生むには何の役にも立たない。幾ら条理を尽くした言葉を並べても、どんな詳細な書面を取り交わそうとも、信頼関係を生み出す事とはならない。

そこで、人を信じるとは、いったいどういう事なのかをハッキリさせる必要がある。私はこれを四つの定義に纏めてみた。
(1 無私の定義) 信じるとは、信じた相手から如何なる報いがあろうとも、全てを受け入れる決心が出来た時はじめて、信じたと言える。
(2 往復の定義) 信頼は、こちらが信じた大きさ深さだけ相手からも信じて貰える。
(3 即応の定義) 人間は、信じられたらそれに応えずにおれないのが人間である。
(4 心眼の定義) 目にみえぬ人の心を信じたその報いは、信じた相手の心が見えてくる。行動となって現れてくる。

だから、信頼は,言うは易いが真の意味が分かってくると、大変恐ろしい事とも言えるのである。何となれば、信じた相手から例えどんなに傷つけられようと、いかなる損失、不利を被ろうとも甘んじて受ける覚悟が必要だからである。

其の為には、信じた相手の前には無防備であること、いつでもまな板に乗った鯉になれることである。つまり、自分の運命を相手に委ねてしまわない限り、強力な信頼関係は生まれない。

しかしながら、私たちは生まれつき自己防衛本能を持っていて、常に傷つきまい、失うまいと無意識に身構えている。これが、信じることの妨げになっていることに気づかねばならない。したがって、常に自己防衛と利己のみに心を奪われている間は、信頼は生まれることはないと言っても言い過ぎではない。

つまり、捨て身の心が、利他の心となり、利他の心が信頼を生み出さずにはおかないのである。信じるとは愛することであり、信じられないのは愛のない証拠である。

航海日誌