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Vol.68 三日坊主にならぬため ~朝の目覚ましは 音声多重の蝉の声

2002/08/01

今回は夏休み特別企画として、多田野弘よりメッセージをお届けします。
一年も半分を過ぎると、誰しも気持ちがだれてくるもの。忙しく過ぎていく日々の中で、一瞬立ち止まって考えてみませんか・・【編】


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誰でも、自分で決めたことが三日坊主に終わって、情けない思いをしたことがあるだろう。どんな良いことも、それを実行し、続けなければ、うどんやの釜か、坊主の説教と同じで"ゆう(湯・言う)ばかり"となる。

では、どうすれば初志貫徹できるのだろうか。自分が一旦決めたことが続かないのは、意志が弱いからだろうか。

多くの人は、自分の三日坊主は意志の弱さに原因があると考え、意志を強くしようと自分に鞭打つのだが、弱い意志を鍛えて強くできると思うのは錯覚である。なぜならば、肉体は形があって鍛えることができるが、意志は形がないから鍛えようがないのである。

問題は、鍛えようという意志や意慾がどこから出ているのかなのだ。その出場所は二つあって、「心」から出る意慾は弱く、「魂」から出る意志は強いといえるのではないか。「心」から出る意慾は自我の表面から出る欲求であり願望であって、そうありたい、そうあらねばならぬ、そうすべきであるという、理性による判断から出るが、「魂」から出るのは、欲求や願望ではなく、自我の奥底から出る、そうせずにおれないという、理屈抜きで目的に向かっていく決意である。だから、頭で考えている間は、行動が始まらず、不撓不屈の意志など生まれようがない。

また、睡眠中、「心」は眠ってしまうが、「魂」は眠らず、自律神経と同様に四六時中はおろか、私達が生きている限り働いている。「明日は4時に起きるぞ」と決意するだけで、アラームがなくてもその時間に眼がさめるのは、「魂」が起こさせてくれたとしかいいようがないではないか。だから、なにか「やるぞ」という決意を、「心」で思うだけでなく、その思いを「魂」に言い聞かせ、「魂」がこれを受け取ることによって強い意志となり、やり通すことが可能となるのである。

一方、楽しくないことは長続きしないことも事実である。例えば、私がアラームなしの早起きやジョギング、水泳を何十年も続けているのを、人は「意志の強い人だなあ」と感心するが、私はこれらを歯を食いしばって続けているのではない、楽しんでやっているのである。もしこれを、辛いけれど、自分を鍛えるために鞭打ってやっていたのであれば、1ヶ月も続かなかったに違いない。私にとっては早起きが「気持がいい」のである。気持がいいから長続きするのであって、意志が強いからではない。習慣が人生を創ると、航海日誌Vol.5に述べたのは、このことである。

ただし、楽しいことにもピンからキリまであり、享楽的な楽しみもあれば、しみじみとした深い楽しみもある。「心」はとかく、刹那的に五官の感覚を喜ばせるような快楽を求めたがるが、「魂」はもっと次元の高い快楽を求める。「心」にとっては苦しい不快なことを、「魂」は快楽とすることさえある。例えば、「心」は粗食や節制を苦行と考えるが、「魂」は粗食はおろか断食さえも快楽とする。また、自己中心にしたい放題に振舞うことは楽しいかもしれないが、克己や忍耐を快楽とする人も少なからずいる。このように、何事も「心」の喜ぶ浅はかな快楽と、「魂」の喜ぶ深い快楽の別があって、そのどちらに惹かれるかを見定めておかないと、意志力の問題を云々することはできない。

つまり、意志の強い弱いは「魂」の命令に従うか、「心」の欲するところに従うかによって決まるといえる。「魂」の快楽より、末梢的な「心」の快楽を優先している間は、不撓不屈の意志を持つことはできないのだ。

航海日誌