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Vol.82 学校教育と日本の未来

2003/11/03

今月の質問者:岡田 秀明さん(西日本支社中国ブロック大型営業グループ)~広島に赴任して、はや10年となります。最近、やけに月日の経つのが早く感じてしまいます。慢心せぬよう、気をつけたいものです。

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私には現在、小学6年生と3年生の子供がいます。私自身、自分の子供が小学校に行くまで知らなかったことですが、自分の小学生の頃と比較して今の学校教育はいろいろ疑問に思うことが有ります。

例えば、先月は運動会シーズンだったのですが、最近は多くの小学校で子供と一緒にお弁当を食べることが出来ません。親が来られない子供がかわいそうだから、だそうです。

徒競走などの個人競技では1位とか2位の順位をつけません。なるべく優劣をつけないようにするため、だそうです。「なるほど!一理ある。」とは私には思えません。

また、先日、小学6年生の算数の教科書の問題の横に見馴れないマークがあったため、息子に「なんじゃ、これ?」と聞くと「計算機マーク」と言います。詳しく聞くと、小数点一桁以上の計算には計算機を使うのだそうです。正直「なんじゃ、そりゃ!」と思ってしまいました。

確かに子供の可能性というものは、勉強の出来る・出来ない、運動の出来る・出来ないなどの単純な物差しで計るものではないでしょう。しかし、変にズレた「平等主義」「非競争主義」、また「ゆとり教育」という名のもとで教育を受けた子供の将来はもちろん、ひいては今後ますます国際競争が激化するであろう日本社会の未来にも大きな問題となってくるのではないでしょうか。
自分のこと(特に学力)は棚に上げ、最高顧問にお尋ねします。如何お考えでしょうか。


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私はあなたと同じく、学校の「平等主義」「非競争主義」はよくないと考えている。人間が向上発展する為には「競争」が不可欠であることは間違いない。なぜならば、教育の機会均等を目指すあまり、平等が強調されすぎて悪平等を生み、それが人間の個性を無視し、可能性や自立心、自己責任を失わせる素になっているからである。

しかし、あくまでも競争は手段であって、決して目的にしてはならない。一般論としても、教育の目的は知能を育てることだけではなく、本来、知育・徳育・体育の三つが基本となっている。しかし、今の日本の教育は知育一辺倒となっており、体育、徳育、特に徳育である心の教育は影も形もないのが現状である。

例えば、学校のテストでいい点をとってくるが、満足に挨拶一つ出来ない子供が増えている。朝起きて両親に「おはよう」、道で会った知り合いの老人に「こんにちは」、何か粗相をしでかしたとき「ごめんなさい」と言える子供は稀である。こうした現状から言っても、今の日本の教育問題の根は極めて深く、これとこれを改めれば良くなるという程簡単ではない。

例えば、子供が何か問題を起こしたとき、必ず誰が悪いのかという責任問題として出てくる。親は「先生が悪い」「学校が悪い」と非難し、学校側は「親が悪い」「家庭教育が悪い」といい、一般の評論家諸氏は「文部科学省が悪い」「日教組が悪い」と言って、親も学校も社会も責任の擦り合いをするが、相手の責任を問い、あら捜しをする暇があったら、自らできる事は何かを考えたらどうですかといいたい。

学校教育についていえば、教師は単に知識の伝達者であってはならないのだ。生徒に感動を与えられる教師であってこそ真の教育者といえる。知力を伸ばすことだけが学校教育の目的であるのなら、いずれ教師は要らなくなる。優れたティーチングマシンがその代わりをしてくれる、その方が教師よりずっと正確で合理的である。

しかし、教師は必要なのだ。マシンはどんなに精巧でも、学ぶことの面白さや人間的な喜びを伝えられるのは、生身の人間である教師にしかできないからである。だが現在、生徒に感動を与えられる教師を見つけるのは難しい。

今の教育は、知的に理論的にものごとを解釈することだけを重点にしている。つまり理性を高めることだけであって、人間の感性であるところの心の面が無視されている為、一種の精神的欠陥人間を創ることになっているのではないか。このような理性重視の教育環境からは、感謝や尊敬の念を教えることは出来るはずがない。

心の教育は、理屈ではなく「しつけ」によってしか培えないのだ。というと何かスパルタ式の「○○してはいけない」「○○しなさい」などと命令的に教えるというイメージがあるが、しつけとは本来、親が手本を示せば子供は自然に身につけていくのである。「おはよう、ありがとう、ごめんなさい」など、親が常に口に出し、その言葉通りの行動をすることによって、子供はそれを肌で覚え、教えずとも自然に身につけていくのである。

結局、今の経済至上主義、合理主義的教育では教育はダメになるだろう。これをどう変えていくかを求められているのが「しつけ」であり「心の教育」である。なぜかといえば、知識の豊富な人は、便利な存在ではあるが、現在はコンピューターが代わりをしてくれるどころか、ボタン一つで膨大な知識を供給してくれる。だから、単に頭がいいというだけの人は要らなくなっており、むしろ、その知識をうまく使いこなす人が求められているのである。つまり、人望を備えた創造性のある人間作りが必要となっている。その人望は知識からは得られず、良い習慣の持ち主になるための子供の頃からの「しつけ」によるのである。

心の教育である徳育は、学校教育だけで出来るものではない。まして、徳も備わっておらず人望のない教師が、どうして生徒に徳育などができようか。子供達に徳を身につけさせる為には、主として親たちが身をもって人徳とは何かを教えなければならないのである。それは「しつけ」によってしか教えられない。

「しつけ」とは良い習慣を身につけること、身につくとは、頭で理解し納得してから実行するのでなく、何も考えなくても無意識によい行動が出来ることである。私は海軍で「やって見せて、言って聞かせてさせてみて、誉めてやらねば人は動かじ」と教えられ、先ず自分がやって見せよと「しつけ」られた。だから、「しつけ」というのは、親しか出来ない子供への素晴らしいプレゼントなのである。
(航海日誌27号、子育てのポリシーも参照されたい。)

航海日誌