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Vol.12 主体性と愛と恋

1997/12/01

今年もやがて終わろうとしているが、皆さんの今年の抱負は達成できたでしょうか。私の航海日誌も、多くの人に励まされて辛うじて一年間続けることができたが、振り返ってみて反省することが多い。舌足らずではあるが一貫して流れているものを感じとって貰えれば幸いである。

ちなみに、九月号に、信じることは愛することであり、信じられないのは愛の無い証拠であると結んだが、愛すると信じるとは果たして同じと言えるだろうか。愛するとは、相手の運命を自分の運命と同じように考えることであり、自分の運命を相手に委ねてしまうこと、つまり自分の凡てを捧げても悔いないと決心することである。また、自分を良かれと思うのと同じ大きさで相手を良かれと願う心である。そして、相手に尽くしたい、喜ばせたいといつも考えている人であるともいえる。

しかし、愛することと恋することは同じではない。むしろ正反対と言えるかもしれない。何故ならば、愛するとは自分を捧げようと思う心であるが、恋するとは相手を得たい奪いたいという自己本位の考え方である。また、恋することは誰でもが持つ人間の自然の欲求であるが、それだけなら犬猫と少しも違わない。人間はそれを昇華して、与える心、捧げる愛の心に包み変えることによってはじめて、その恋は周囲から祝福され最も美しいものとなる。

恋は相手に求めて止まないが、愛は惜しみなく与える無償の心である。報いを求めている間は、愛ではなく取り引きである。さらに、恋は成就への苦しみを伴い、失う悲しみは深いが、愛は心を潤い溢れさせ、与えることに満足と喜びを覚えるのである。愛は相手を選ばず、我が身を守ることをいつも忘れている。自己防衛の必要を感じないのは、強い主体性があるからである。

愛することは究極の奉仕であり、最も主体性ある人間の証でもある。したがって、信じることも愛することも、主体性ある人間の捨て身と利他の心が源泉となっているのである。

来る年も皆さんにとって、主体性のある素晴らしい年であるよう祈っている。

航海日誌